山田風太郎『警視庁草紙』

 明治六年、東京を去る西郷隆盛を、川路利良大警視が部下を連れ見送る、という場面から、この物語は始まる。が、本筋は歴史の表舞台に立つ側にはない。大警視の後ろに控えた部下の一人、六尺棒を担いだ髭づらの油戸杖五郎巡査が、さまざまな怪事件を追うほうにある。
 明治も初頭、もちろん江戸の記憶が薄れるはずもなく、新政府に反感を覚える人も多い。その中には、かつての犯罪捜査のプロもいる。元同心の千羽兵四郎、元岡っ引きの冷酒かん八もやはり事件とは縁が切れず、いきおい杖五郎はじめ警察と額を突きあわせることとなり、知恵比べの様相を見せてくる。初代警視総監の川路と、兵四郎らを使いその鼻をあかそうと企む元南町奉行の駒井相模守。新旧の対決は、それぞれの心意気やことわりも垣間見せて、変化に富む物語をさらに深く、厚くしている。
 三遊亭円朝を巻き込んだ密室殺人(?)にはじまり、謎解きありケイパーあり、とミステリ風味を楽しむうちに、いつしかミステリっぽさがなくなっていても、面白さは加速していく。
 作者の目は時代のうねりを捉え、江戸から東京へと激変していく風景を見る。その中を行き交うは、大久保利通黒田清隆井上馨岩倉具視、のちに夏目漱石樋口一葉幸田露伴となる子供たちや、三河町の半七らも顔を出す。作者は物語の中で弱い者たちに優しく語りかけ、奸佞な輩には辛辣な言葉を向ける。
 筋立ても書きぶりも大胆豪快でいながら、人物事物の描き方、細部の計算は繊細にして緻密。新旧対決のゲームが迎える思いもよらぬ結末も、歴史の流れと登場人物たちの情理をふまえて、心を強く、重く打つ。読み終えてしばらく、声が出なかった。
 面白い本は尽きない。読んでいて居住まいを正すような本(もちろん堅苦しいのではない)にも、しばしば出あう。でも、居住まいを正すほど面白い本、とくると、そうそうはないだろう。が、書いたもののどれを読んでもそんな思いにさせてくれる作家は、多くはないがたしかに存在していて、ぼくにとって山田風太郎は、その筆頭に挙げられる人だ。この『警視庁草紙』も、かくのごとく読むうちに背すじが伸びてくるほどに、面白さが横溢している。嬉しくも、昨夏にちくま文庫は《山田風太郎明治小説全集》全十四巻を復刊。本作にはじまる明治物を楽しむ好機だろう。ぼくも全巻まとめ買いしたので、これからどっぷりはまることにします。

山田風太郎『警視庁草紙』上下(山田風太郎明治小説全集1、2)ちくま文庫2010復刊(初版1997、初刊1975) カバー装画・デザイン:南信坊
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