『白鯨』をめぐって

 年頭にメルヴィルの『白鯨』を読んださい、ふと気になったことがあり、映画の生き字引のような年長の友人に尋ねてみた。
 ジョン・ヒューストン監督、グレゴリー・ペック主演の『白鯨』の日本公開は1956年。その時点で、原作は阿部知二訳、田中西二郎訳、ともに書店に並んでいた。では、本は映画公開にからめて宣伝されたのだろうか。
 が、『白鯨』を封切時に劇場で見た彼からは、「それはなかったなあ」という答えが返ってきた。そのような宣伝の仕方は、まだされる時代ではなかった、ということか。
 ヒューストンの『白鯨』といえば、脚本の共作者がレイ・ブラッドベリであることしか知らない。DVD(20世紀フォックス)で見てみることにした。
 驚いたのは、あの鯨事典のような原作から、筋立てだけをうまく取り出していること。だから、いくぶんあっさりめにも見えるけれど、雄大な海洋冒険映画に仕上がっている。あの時代の捕鯨船や、捕鯨のしかたが映像で見られるのには、わくわくした。たしかに、今の目からだと、特撮などはつたなく見えるかもしれない。でも、それを些細なことにしか感じさせない力強さが、この映画には湛えられている。
 映画館のスクリーンでこれを見た、かの老友が、うらやましくてたまらなくなった。

 その『白鯨』の脚本を書いた頃の自分を、ブラッドベリが小説に書いている、というので、読みたくなった。
『緑の影、白い鯨』という長篇小説だ。すぐに見つけて読んでみたが、これもまた、素晴らしい小説だった。ハリウッドの赤狩りを逃れたヒューストンの招きで赴いたアイルランドは、SF作家の彼にとってさえ不思議な土地だった、ということが、物語のあちこちから伝わってくる。
「集会」などの短篇が、のちに長篇『塵よりよみがえり』の一部になったように、この長篇の中にはアイルランドを舞台にした短篇の数々が吸収されている。だからなのか、ときどき小説そのものの流れが見えなくなるところもある。が、読み終えたとき、心の奥に深く響くものがある。異世界アイルランド。異人ブラッドベリ。鯨の映画がなければ出会わなかった、不思議の国と不思議な旅人の物語は、とても優しく、あたたかい。
 翻訳は、ブラッドベリにも映画にも造詣の深い川本三郎氏。少々気になるのは、カタカナ言葉に漢字のルビがついていたり、訳注が必要以上についていたりすることで、その箇所だけ読みづらくなってしまうのが残念だ。もっとも、これは訳者よりは編集者の問題なのかもしれない。

『緑の影、白い鯨』レイ・ブラッドベリ 川本三郎訳 筑摩書房 2007
GREEN SHADOWS, WHITE WHALE by Ray Bradbury, 1992
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480831866/

 さて。ほぼ三年間続けてきたこのブログですが、このあたりでお休みさせていただきます。
 三年ものあいだ、お付き合いいただき、ありがとうございました。
 いずれまた、何か書きたくなるかと思いますが、ひとまずはこのあたりで。
 感謝を込め、皆様との再会を約しつつ、倉庫のシャッターを下ろさせていただきます。(Uncle Mojo)