「モルグ街の殺人」

 ガストン・ルルーは『黄色い部屋の謎』(1907)で、この事件が「モルグ街の殺人」や「まだらの紐」以上のものである、としたうえで、少年探偵ルールタビーユにホームズを揶揄させている。これはきっと、アーサー・コナン・ドイルが『緋色の研究』(1888)で、ホームズにデュパンを叩かせているからだろう。そういえば、イズレイル・ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』(1891)には、作中の密室殺人に「モルグ街の殺人」を踏まえた珍推理が披瀝される場面があった。先人を尊敬しながら「なんだい、あんなやつ大したことないよ」とばかりに乗り越えようとする、称賛と表裏一体の批判ということで、エドガー・アラン・ポーがかくも偉大な作家であり、オーギュスト・デュパンは名探偵の祖、「モルグ街の殺人」は本格ミステリ、わけても密室ものの起源である、ということか。
 そんなことを考えていたら、デュパンものを通しで読んでみたくなったので、中公文庫の丸谷才一訳『ポー名作集』を買ってきた。初版が1973年で、ぼくが買ったのが2004年の22刷。この文庫一点だけでも30年を超えるロングセラーだが、たしか「モルグ街の殺人」は森鴎外も翻訳していたはずなので、そう思うとポーが日本でどれだけ長く読まれているか、驚くばかりだ。
 さて、その「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue, 1841)だが、あらためて読んでみると、やはり面白い。密室のタネ明かしとか犯人の正体とか、読まなくても知っている人は多いことだろうし、そういう人はネタを知って「馬鹿馬鹿しい」と思い、読まないかもしれない。だとしたら勿体ない。面白いんだから。
 この「モルグ街の殺人」は、なんとも奇妙な小説だ。まず、短篇小説だというのに、前書きがある。そこで「発明的な人間は常に空想的であり、真に想像力に富んだ人間はかなり分析的である」という〈命題〉を提示しているばかりか、小説の本篇のほうを「注釈のような役割」を果たすもの、と述べている。
 二行の命題の注釈としての、文庫本50ページぶんの小説?
 いや、これは、ミステリというジャンルがまだなかった時代に、「これは頭を使って楽しむ小説なのですよ」と説明してくれる、ポーの親切な前口上として読んでおくべきだろう。
 本篇がまた奇妙で、アメリカの作家ポーが、なぜパリを舞台にしたのか、とまず考えてしまう。
 主人公の貧乏貴族オーギュスト・デュパンも変わっていて、極端な夜型、それなのにレンズが濃い緑色の眼鏡をかけることがある、という設定。殺人事件の被害者のうち、母親の職業は占い師で、がっぽり稼いでいるし、夜に彼女と娘の悲鳴を聞いて駆けつけた隣人たちは、フランス人ももちろんいるけれど、オランダ人にイギリス人、スペイン人にイタリア人で、職業は銀細工師に菓子屋、料理店主、洋服屋などなど。彼らはてんでんに、犯人らしい者の言った言葉を、ドイツ語だロシア語だ、いやスペイン語だイタリア語だ、何を言うフランス語だったぞ、と勝手な証言をする。それを聞いたデュパンはさらに、このあたりには「アジア人もアフリカ人も、そう多くは住んでいない」と言う。そう多くは、ということは、少ないけれど住んでいる、ってことだよね?
 自らの頭脳一つで警察組織をだしぬいてしまう、というキャラクターを、ポーは作ろうとして、奇矯な青年を仕立てたのかもしれないし、謎解きの手掛かりのために、異国人を多く出してきたのかもしれない。が、こう思ったら、楽しいし理屈も合うんじゃないだろうか。「無職の青年が夜うろついていても、外人たちがフランス語を使えないまま商売していても、人目をひくことなく、占い師が稼げて、奇怪な事件も起きる大都会、パリ」なんて。
 そう、ポーは怪事件と名探偵のために、パリを舞台に選んだのではないだろうか。
 その奇怪な事件というのは、被害者の首を切ったり煙突に押し込んだりと、凄惨残虐きわまりない二重殺人。かつてフランスで流行したホラー演劇〈グラン・ギニョール〉というのはこんな感じだったのか、と想像してしまうが、あれれ、〈グラン・ギニョール〉は19世紀の終わりに始まって20世紀初頭に隆盛。「モルグ街」よりずっと後だ。そのうえ、いくらでも怖そうに描けるところ、ポーはさらっと流してしまい、理知的な謎解きに集中する。
 扉は施錠され窓は釘付け、という犯行現場の奇妙さ、不自然さも、のちの「密室もの」を知っていると、もうちょっと驚いてくれてもいいのにな、というほどに、デュパンは捜査を実証的に進める。密室殺人というものが、ミステリの花形になったのは、いつからだろうか。まだこの時点では、あまり重きを置かれてはいないようだ。が、「動機」と「不可能性」、それぞれについて、いかにも名探偵、という決め台詞をデュパンが吐いてくれるあたり、ミステリの読者ならば心にくく思うのではないだろうか。なお、余談ながら、彼は自分が後続の探偵たちにされたように、ヴィドックを批判しているのも、面白い。ホームズもルールタビーユも、「顰に倣った」ということだろうか。
 この謎解きの「流れ」があるからこそ、「あの解決」も、物語として綺麗にきまっているし、「あの犯人」だって、決して荒唐無稽ではない。やはり、本作はミステリの祖に、まちがいないだろう。
 おまけに、結末からは、パリのもうひとつの顔、「博物学都市」の様相が浮かんでくる。が、このあたりを書きだすと、ブログという枠にはおさまりきらないから、こちらはもうしばらく、ぼく一人の楽しみにしておこう。