初心者の楽しみ
ジャズが好き、といっても、聴きはじめたのはつい最近。
急にジャズ・ピアノというものが聴きたくなって、ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』を買ったら、そのまま勢いづいて、週に一、二枚はCDを買うようになってしまいました。
はまった、とはこのことか。
こうなると、新しい世界が開けたようで、楽しくてたまらない。CDショップの「ジャズ」の棚前をうろうろして、どれを聴いてみようか迷うことから、面白がっている始末。
そんなことをしていて、ふと思い出したのが、ミステリを読みはじめたばかりのロウティーンの頃の自分。
あのころも、本屋の文庫棚、とくに「ハヤカワ・ミステリ文庫」や「ハヤカワ文庫NV」、「創元推理文庫」の前で、行ったりしながらどれを読もうか迷うところから、楽しみがはじまっていたようです。ちょうど、角川文庫の横溝正史ブームの最中。日本のものも海外のものも、文庫のミステリは選び放題でした。
ジャズとは違って、ミステリは長らく読んでいる。自分の好みもはっきりしているから、本屋で迷うことはあるまい、と思っていました。
でも、今になって、ふたたび迷うのを楽しむようになってきました。
きっかけは、石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア』を読んだから。
映画評論家というだけでなく、ミステリの愛読者としても有名な石上さんが、かれこれ五十年も読んできたミステリを、愛と洞察をもって語っている本です。
取り上げられた作家は、ドイル、ヴァン・ダイン、クイーン、クロフツ、クリスティ、シムノン、カー、ハメット、アイリッシュ、江戸川乱歩、横溝正史などなど、マニアでなくても知っているような人たちばかり。
彼らの作品を読み返し、意外な面を発見していくさまは、まるで石上さん本人が名探偵になったようで、ミステリというものが持つ「謎」を解いていくような楽しさがあります。
この本で取り上げられたミステリ、たとえば『緋色の研究』や『Yの悲劇』、『オリエント急行殺人事件』や『幻の女』などは、古典とか名作とか呼ばれて、初心者の頃にひと通り読んでいるもの。
でも、「中学生や高校生の頃に一度読んだ」という記憶だけで、読み返さないのはもったいない。犯人やトリックは忘れられなくても、物語の楽しさの隅々まで、覚えているわけじゃない。
読者だって、育つし、変わる。
この本を読むと、石上さんのように、名作を読み返したくなります。
本屋に行くと、新刊ではなくて、ずっと棚に並んでいる見慣れたタイトルのミステリが、語りかけてくるような気がしてきます。
どれを読もうか。いや、どれから読み返そうか。
そんな気持ちで、ぼくは本屋の中を、行ったり来たりするようになりました。
再会とは、より豊かな出会いなのかもしれません。
そんなことを、この本を前に、ふと思いました。
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『名探偵たちのユートピア』
石上三登志
東京創元社 KEY LIBRARY
2007
装丁・和田誠
http://www.tsogen.co.jp/np/detail.do?goods_id=3649