ビル・エヴァンスを聴く前に

 ついこのあいだまで、ジャズという音楽は、とっつきにくい、難しいものだと思っていた。
 ミュージシャンの名前くらいなら、多少なじみはあるが、専門用語が多いのにはたじろぐ。
 入門書や名盤ガイドを開けば、評論家やマニアの人たちの知識量に圧倒されるばかり。読むうちに、頭が勉強するほうに切り替わってしまった。

「手当たり次第に聴いていけば、楽しみ方の勘所がつかめてくるよ」
 と、その道の人から教わったが、手当たり次第なんて、そうそうできるものではない。
 ならば、と思いたって、ジャズ喫茶に行ってみたこともある。たしかにいろいろ聴くことができたが、店のほうは接客に気を配らないし、客はといえば、なんだかジャズを勉強しにきているようだしで、ほどなく足が遠のいてしまった。

 ところが、きっかけは思わぬところからやってきた。

 この正月に帰省したとき、母親がふとしたはずみで言ったひとことに、ぼくは驚いた。

「ジャズって、いいねえ」

 とうに七十歳をすぎた、田舎のおばあちゃんの言葉である。
 尋ねてみると、母は、年末に友人と、市内で開かれたジャズ・コンサートに行ってきた、という。
 もともと細かいことを気にしないたちだからか、どんな人たちが来てどんな曲をやったか、なんてことはよく覚えていないようで、
「歌手の女の人のねえ、茶色いドレスが、茶色っていっても地味なんじゃないのよ、とても素敵」
というくらい。
 でも、その口調から、コンサートがどんなに楽しかったかは、想像できた。

 長年聴きこんできた「通」が唸るジャズもあるだろう。でも、ジャズというものに縁遠い人が、思わず「いいねえ」と言うジャズも、もちろんあるだろう。

 母のこのひとことから、ぼくはあらためて、ジャズが聴きたくなった。今度は、勉強抜きで。

 でも、最初の一枚に選んだのが、なぜビル・エヴァンス・トリオの『ポートレイト・イン・ジャズ』だったのかは、思い出せない。
 タイトルが恰好よく、ジャケットがタイトルそのまま、エヴァンスのポートレイトだったからか。
「枯葉」や「いつか王子様が」という、知っている曲が入っていたからか。
 つい最近買ったのに、勢いづいて一月かそこらで何枚もアルバムを聴いたからか、もう思い出せない。ただ、ピアノの音が聴きたくてたまらなかった、ということだけは、覚えている。

 そして、聴くうちに心がマッサージを受けているような心地よさを感じてきて、何度も繰り返し聴いたことも。

「ぼくにとってのジャズは、ビル・エヴァンスからはじまった」
と言うと、なんだか植草甚一さんの真似みたいだけれど、
「ぼくにとってのジャズは、おふくろさんからはじまった」
と言うと、なんだか可笑しい。
 でも、これは本当のこと。

 二人の子供と、子供たち以上に世話のやける夫のために、長年働いてきた母は、今はジャズを聴き、温泉旅行に行き、俳句を詠んでいる。人から「おばあちゃん」と呼ばれる歳になって、楽しみをいくつも見つけたようだ。

 * * * * *

ビル・エヴァンス・トリオ / ポートレイト・イン・ジャズ[+1](ユニバーサル・クラシック UCCO-5003)

<収録曲>
1. 降っても晴れても
2. 枯葉(テイク1)
3. 枯葉(テイク2)
4. ウィッチクラフト
5. ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ
6. ペリズ・スコープ
7. 恋とは何でしょう?
8. スプリング・イズ・ヒア
9. いつか王子様が
10. ブルー・イン・グリーン(テイク3)
11. ブルー・イン・グリーン(テイク2)* ボーナストラック

<パーソネル>
ビル・エヴァンス(p)
スコット・ラファロ(b)
ポール・モチアン(ds)
★1959.12.28 ニューヨークにて録音

http://www.universal-music.co.jp/jazz/collection/jtb150/01.html