カメレオンのための音楽

 高校に入ってすぐ、《ミステリマガジン》を読みはじめた。
 当時《ミステリマガジン》の定価は580円。文庫の翻訳ミステリだと、さすがに薄いの二冊は買えなかったが、厚めのを一冊買ってもおつりがくる値段だった。そのぶんを高校生の小遣いから、毎月この雑誌に充てるというのだから、これは背伸びをしていたのだろう。

 でも、背伸びをしただけのことはあった。
 瀬戸川猛資さんの名評論「夜明けの睡魔」や、木村二郎さんの原書紹介をはじめ、エッセイやコラム、書評という、小説以外の文章に触れることができた。桜井一さんの「ミステリマップ」や、小説の挿絵などのイラストレーションも楽しかった。
 十六歳のぼくは、世界が広くなったように思ったものだった。

 そんななかで、ことに新鮮だったのは、ミステリ以外の海外の小説だった。
 浅倉久志さん訳の連載「ユーモア・スケッチ」はもちろんだが、しばしば「都会小説」などの角書きで掲載される短篇で、ミステリとは違う面白さにふれて、わくわくしたものだ。

 トルーマン・カポーティに出会ったのも、《ミステリマガジン》だった。
『カメレオンのための音楽』という短篇集から、ということで、毎号一篇、半年ほど連載されたのは、今調べると1982年の11月号から。その頃ぼくは十七歳で、弓道部員で、ひねくれていた。
 美しい老婦人のピアノに集まるカメレオン。身なりよく来客の多い、謎めいた盲目の男。砂漠に置き去りにされた老紳士……どれもが、写実的なのに出来事をすべて語りきっていない、いや、何か起きたのかどうかさえわからない、とても短くて、読み終えたあと「ぽかん」としてしまうような、それでいて忘れがたい物語だった。
 事件が起きて、その謎が解かれるミステリとは対極にあるような、不思議な小説で、ミステリ好きな高校生なら、むしろ読んで怒るか、読まずに済ませそうなものだ。それでも読んでいたのは、翻訳の文体にあったのだろう。
 訳者は野坂昭如
 当時のぼくは、この人を、こんな風に知っていた。
 いつもサングラスをかけている人。
 サントリーウイスキーのコマーシャルで、白いスーツを着て「ソ、ソ、ソクラテスプラトンか」と歌っていた人。
 猥褻な小説を書いたということで裁判にかけられた人。
火垂るの墓」の作者。
 その人が翻訳をしている、ということは、ちょっと信じられなかったが、不思議な小説にもすっと入っていける訳文に惹かれたことはたしかで、連載中は、《ミステリマガジン》を買うと、まずカポーティから読むようになっていた。

 野坂昭如の小説を読んだのは、それからずっと後のことになる。この『カメレオンのための音楽』を通して読んだのは、さらに後、つい先週のことだ。

 本書は三部構成になっていて、《ミステリマガジン》に連載された六篇は、その第一部。表題作や「窓辺のランプ」は、高校生のとき読んだのと、ほとんど印象が変わらないのに、驚いた。が、読む側が歳をとったことで、当時よりもずっと面白く読めたものもある。たとえば「ジョーンズ氏」や「モハーベ砂漠」で、わからないと思ったところは、カポーティが書かずにおいたところで、そこが想像できるようになった、ということだろう。

 第二部は、中篇「手彫りの柩」。奇怪な連続殺人と、それを執拗に捜査する刑事を描いたノンフィクションということだが、犯行は予告されるし、殺人の手段が毒蛇だったり、犠牲者の首を刎ねるため道路に張られた鉄線だったりだし、刑事の婚約者まで狙われるしで、まるでミステリ。そのつもりで読んでもサスペンスフルなのだが、語り手(カポーティ)と容疑者とのかかわりや、ミステリではけっしてできない結末のつけかたに、体に応える読後感があった。

 第三部「会話によるポートレイト」は、タイトルどおり、カポーティとさまざまな人々との会話が七篇。掃除のおばちゃんと仕事中にマリファナでぶっとんだかと思えばマリリン・モンローと中華料理屋で酒を飲み、死刑囚にインタビューする一方で『冷血』の取材がもとで警察に追われる。そんなさまが生き生きと描かれて(いや、記録されて、か?)いて、実に面白い。

 どれも実に鮮やかな翻訳なのだけれど、訳者は「あとがき」で、自分の翻訳に謙遜している。自分をそこまで低く言わなくても、と思うほど。翻訳家ではないから、ここまで謙遜してしまったのだろうか。

 ふと、本書の収録作と、訳者の短篇小説に、どこか似たところがあるような気がした。
 たとえば、『骨餓身峠死人葛』の、凄惨妖異な表題作ではなく、「当世ますらお団」や「ああ奇っ怪大褒章」に登場する、世間からちょっと外れた人々の、可笑しくてもの悲しい姿には、来る人は誰であれもてなしてしまう「もてなし」のカーター夫妻や、「見知らぬ人へ、こんにちは」で美少女との文通からとんでもない事態を招いてしまう中年男ジョージに、通じるものがあるような気がする。

 文庫版の「訳者あとがき」は、カポーティの「眼」についての言葉で終わっている。
 トルーマン・カポーティ野坂昭如。作家の「眼」は、時も場所も超えて、描かれる人間のどこか深いところを、しっかり見ているのかもしれない。

『カメレオンのための音楽』
トルーマン・カポーティ 野坂昭如
ハヤカワepi文庫 2002(単行本1983)
ジャケット 装画:北見隆 デザイン:ハヤカワ・デザイン

MUSIC FOR CHAMELEONS by Truman Capote, 1980

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