無国籍哀歌 錆びた拳銃

 谷弘兒さんのコミック単行本が、ひさびさに刊行された。
 前に出た本が『快傑蜃気楼(ミラージュ)』(青林工藝舎 2002)だから、6年ぶりということになる。

 谷さんの『薔薇と拳銃』(東考社桜井文庫 1983)を、ぼくが手にしたのは、東京に出てきたばかり、まだ十代の頃だった。
 消えた少女を捜すうちに、探偵・陰溝蠅児(かげみぞ ようじ)が踏み込んだのは、マダム・キルケーの娼館。そこはフリークの娼婦や男娼、「餓鬼草紙」の餓鬼さながらの豚人間が蠢く、快楽の地獄ともいうべき異世界だった……。
 この、地味な装幀の文庫本に収まった猟奇のパノラマを、買う勇気が出ないまま眺めているあいだは(そう、この頃はまだ、書店でマンガの立ち読みができたのだ)、なんだかバッド・トリップをしているようだった。

 結局、『薔薇と拳銃』も、隣に並んでいた『快傑蜃気楼』や『地獄のドンファン』も買えなかった。
 でも、これらの本にはその後は二度と出会えなかったというのに、谷さんの作品を目にすることが続き、やがては御本人にお目にかかる機会さえ得るのだから、不思議なものだ。
 繊細な筆致で、『薔薇と拳銃』の怪奇耽美世界や、『快傑蜃気楼』のコミカルで奇想天外な活劇を描いていた人は、瀟洒でおだやかな紳士だった。

 さて。
 本書は2002年から今春にかけて〈月刊コミックビーム〉に発表された19作を収録している。短いもので6ページ、長くても20ページほどの短篇だ。
 連作《無国籍哀歌》は、右腕に人魚の刺青をもつ船乗り(マドロス)が、港ごとに出会う事件を描いたもの。彼が巡り会うのは、ならず者、浮浪者、町の顔役、密告屋、大道芸人、野良犬、そして、美しい娼婦たち……社会の表側には出られない人々との、束の間の出会いと別れのあいだに起きるドラマは、タイトルどおり、往年の無国籍アクション映画を連想させる。意識して、「あの世界」のお約束を踏まえているのだろう。が、その「お約束」の中に、この世界にしかない、「詩」としか呼びようのないものが煌めいている。

「詩」の印象は、連作のインターバルよろしく収録された、幻想的な小品に、さらに強い。かつて発表された、H・P・ラヴクラフトの〈夢幻境もの〉に通じるファンタジイの連作(青林工藝舎『快傑蜃気楼』に収録)と共鳴しながらも、ここにある一連の作品は、また新たな輝きを発している。

 この一冊を、さらっと読み流してしまうのは簡単だ。
 だが、一篇ごとに、一齣一齣を、その描線を、ネームを味わうと、そこから「詩」が溢れてくる。
 そんな「詩」に触れながら、ゆっくりと、そして何度も、読みたくなる。

 この本は、そんなコミックです。

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『無国籍哀歌 錆びた拳銃』
谷弘兒
エンターブレイン(ビームコミックス)2008
装画:著者 装幀:南伸坊

http://www.enterbrain.co.jp/jp/p_catalog/book/2008/978-4-7577-3974-1.html