黄色い部屋の謎

 ミステリの古典というのは、トリックがどうで犯人が誰だった、と、読みはじめた十代の頃の記憶がけっこう残っているからか、あまり読み返さないでいた。でも、小説というもの、ネタだけで書かれているものではない。読み返す楽しみを語った、石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア』(東京創元社)を読んで以来、「古典を読み返したい」という気持ちが、強くなってきた。
 折よく、最近になって、同じ版元からガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』の新版が出たので、これ幸いと読んでみることにした。1907年の小説が一世紀後の2008年にあらためて発売されるとは、さすが古典というべきか。奥付を見ると、旧版は1965年に刊行されて、2004年には74版を数えている。
(余談ながら、この小説は1921年、大正10年にはもう邦訳されていた、と本書の解説に書かれていた。各社諸訳を併せれば、たいへんなロングセラーだ!)
 ぼくがこれを最初に読んだのはまだ小学生の頃、子供向けのダイジェスト版よろしき翻訳で、だった。背伸びざかりの中学生の頃には、たしか創元推理文庫で読んで、犯人の名前も密室の謎解きも忘れてはいないが、他のところは何一つ覚えちゃいない。これだけ忘れていれば、読み返す楽しみも多いというものだ。

 高名な科学者スタンガースン博士邸の研究棟にある《黄色い部屋》。内部から密閉されたその部屋で、博士の娘マチルドが、何者かに襲われ重傷を負う。だが、彼女を襲ったはずの何者かは、忽然と消えてしまった。パリ警視庁の老練なラルサンがいち早く捜査を進めるなか、十八歳の新聞記者ルールタビーユは、自ら謎を解かんと博士邸を訪れる。

 ミステリ、中でも「密室もの」の古典というだけあって、事件の謎はなかなかに鮮烈。堅牢きわまりない《黄色い部屋》から深夜に銃声響き、扉うち破れば麗しのマチルド嬢が倒れ壁には血染めの手形、しかし犯人らしき者は影さえもない、とくるのだから。
 続いて、怪しい侵入者を数人で追いつめるが、追っ手たちは廊下で鉢合わせ、曲者は忽然と消えてしまう、という、これまた奇怪な事件が起きる。さらに、これは覚えていなかったのだが、終盤近くなってもう一つ、怪死事件が発生。
 作者ルルーは語り手に託して、これはポオの『モルグ街の殺人』(1841年)やドイルの『まだらの紐』(1892年)以上の事件である、と言い、後者についてはわざわざ註でネタ割りまでしたうえ、ルールタビーユにはホームズへの辛辣な言葉を吐かせてもいる。ポオから67年後、ドイルから15年後で、どちらもポピュラーだったからこそ、そう書けたのだろう。
 この『黄色い部屋の謎』は、今でこそ古典なのだけれど、書かれた頃は「古典への挑戦」だったのかもしれない。そう思うと、それだけで楽しくなってくる。
 もっとも、ぼくが今読み返すと、『モルグ街の殺人』も『まだらの紐』も、合理的な謎解きのある怪奇小説、といった雰囲気がどこかしらあって、比べてこの『黄色い部屋の謎』は、事件が不可解ではあっても「恐い」「無気味」という印象は薄い。そこのところは、より本格ミステリらしい、と受け取るべきか。
 ……とは思いもしたが、やはり「フェアプレイ」の概念がミステリの世界に現れるより前の小説だからか、謎解きも論理よりは、作者の演出の上手さで納得させられるようなところも多い。もっとも、そういうところは演出が楽しいのだが。他にも、ああ、昔の小説なんだな、と思うところはあるが、そういうところも味わいのうち、と思うのが、古典の楽しみ方というものだろう。

 歳を取って読んでみると、気になるのが、「なぜ18歳の少年を名探偵にしたのか」ということで、これはミステリを読みはじめたばかりのロウティーンのぼくには、なまじ歳が近いだけに、よくわからなかった。ぴんと来たら、続編の『黒衣婦人の香り』も読んでいるはずだが、当時は読みたいと思わなかったし、それで今に至っている。
『黄色い部屋の謎』を読み終えたら、そこのところに気づいて、『黒衣婦人の香り』が読みたくてたまらなくなった。だが、残念なことに、手に入れにくい本になっているようだ。でも、本書の解説を読むと、そちらも遠からず復刊しそうなふうに読める結びになっているから、しばらく待ってみることにしよう。

 そうそう。
 今回読み返していちばん面白かったのは、やはり最初の密室事件の解決。そこだけ取り出すと、『モルグ街の殺人』や『まだらの紐』以上に怪奇小説めいてもいるのが興味深い。ここのところは、ちょっと気づいたことがあるので、追々掘り下げてみようと思っている。

『黄色い部屋の謎』
ガストン・ルルー 宮崎嶺雄訳
創元推理文庫 2008
解説:戸川安宣
装幀:柳川貴代+Fragment
LE MYST`ERE DE LA CHAMBRE JAUNE par Gaston Leroux, 1907
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