ビッグ・ボウの殺人

 先日、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』(1907)を読んで、もうひとつ〈密室もの〉ミステリの古典があったなあ、と思い出したのが、イズレイル・ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』(1891)。これはまだ読んでいなかったので、大きな書店で探してみたら、幸いなことにすぐ見つかった。

 労働運動の指導者コンスタントが、下宿の自室で喉を切られて殺された。部屋は内側から施錠されていた、という不可解な状況。元刑事グロドマンと現役刑事ウィンプが捜査を競う。詩人デンジルが右往左往するのは、真相を追ってか、それとも金策のためか? 新聞では素人推理の珍説奇説が交わされ、検視審問は空転する。そしてグロドマンを出し抜きウィンプが名指した犯人は?

〈密室もの〉の古典といっても、ちょうど50年前に発表されたポオの『モルグ街の殺人』(1841)のような怪奇趣味はなく、それを茶化しているような珍推理がちょっと出てくるくらい。ドイルの『まだらの紐』(1892)が『モルグ街』を意識したかのような怪奇な演出をしているのに比べると、本作はその前年に発表されているのに、むしろ新しくさえ見える。
 本作の16年後に発表された『黄色い部屋の謎』も、その根はフランス式の大衆小説にあるようで、古さは否めない。一方、この『ビッグ・ボウ』は、密室ものというだけでなく、短い物語の中にさまざまな推理の開陳あり、事件をめぐる二人の探偵のかけひきあり、終盤に向かうとタイムリミット・サスペンスよろしき仕掛けもあって、労働運動など時代的なものは描かれていても、古くは感じられない。
 最終章で密室の謎が解かれると、犯人が誰か、というだけでなく、犯行動機の異様さにも驚かされる。犯人やトリックは、ミステリ初心者向けのガイドブックや推理クイズの本などで紹介されていたこともあって、けっこう有名なのだけれど、ぼく自身、知っていたのに読むうちに忘れていて、正直な話、びっくりした。
 とても19世紀のミステリとは思えない!

 おまけに、すっとぼけたような、なんともいえない可笑しさが物語に湛えられている。ミステリを読んでいて、こんなに笑ったのは久しぶりで、思い出したらミルンの『赤い館の秘密』を読んで以来だった。陪審員がボケぞろいで空転する検視審問のくだりや、二人のメイドに振りまわされて詩人の金策がふいになるくだりは、ことに可笑しい。
 が、そのギャグの中に伏線が隠されているのだから、やっぱり油断ならない。

 19世紀末、ホームズ時代の空気の味わいあり、謎ありサスペンスありで、とことん理詰めで、笑わせて驚かせてくれる、なんとも素敵なミステリです。ぜひ御一読を。

『ビッグ・ボウの殺人』
イズレイル・ザングウィル 吉田誠一訳
ハヤカワ・ミステリ文庫 2000(初版1980)
THE BIG BOW MYSTERY by Israel Zangwill, 1891
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/46601.html