皇帝のかぎ煙草入れ

uncle_mojo2008-05-17


 ミステリの古典を読み返そう、と思っても、なかなか食指の動かないのが、ジョン・ディクスン・カー。昔は熱中したもので、邦訳のあるものは八、九割読んでいるのだけれど、今になって再読しようとすると、なぜか躊躇してしまう。
 トリックが際立っているだけに、けっこうそこの印象は鮮明で、タイトルを見ると事件の状況設定から解決まで、思い出してしまう。「ああ、この話ではこんな密室殺人が起きて、こんなトリックが使われていて、こんなふうに解決するんだっけ」と。
 名探偵はじめ登場人物の性格づけが、漫画的なほどにシンプルなのも、ロマンスや活劇、ギャグや怪奇といったサービスの多さも、それを後押しして、「こんなに思い出せるなら、忘れたころのほうが、楽しく読み返せるだろう」と後回しにして、それをここ数年、繰り返している。だから読み返せない。

 ふと思い立って、『皇帝のかぎ煙草入れ』を読み返そうと思ったのは、トリックは覚えていたものの他の要素はきれいに忘れていたから。もうひとつ、1941年に発表されたこの作品、1950年に邦訳されて以来、ロングセラーぶりと訳書の多さでは、カーの作品中屈指であるようだから。前に読んだのは講談社文庫(宇野利泰訳 1977)だったけれど、今回読んでみたのは、井上一夫訳の創元推理文庫で、初版は1961年、2008年には54版を数えている。

 舞台はパリ。英国婦人イヴ・ニールは離婚したのち、向かいに住むやはり英国人のトビイ・ロウズと婚約する。が、ある夜、前夫テッドが合鍵を使って侵入し、イヴに復縁を迫る。が、そのとき向かいでは、トビイの父モーリスが何者かに殺された。イヴの寝室の窓越しに犯行を目撃するネッドだが、警察がロウズ家に来るや、姿を消してしまった。翌日、自分がモーリス殺害の容疑をかけられているとイヴは知るが、潔白を証明するにはネッドと一緒だったことを明かさなければならない。そこに精神分析医キンロス博士が、彼女の無実を信じ、真犯人を突き止めるべく立ち上がる。

 あれ? 〈密室もの〉の巨匠カーの書いたものだから、本格ミステリかと思ったら、これ、サスペンスじゃないか?
 隣家で起きた殺人を窓越しに目撃する、というシチュエーションに、ウィリアム・アイリッシュの『裏窓』(1942年)を連想した。これはヒッチコックが映画化(1954年)しているけれど、ヒッチつながりで、窮地に立つヒロインの潔白を証明する、という筋に『ダイヤルMを廻せ!』(1954年。原作の戯曲は1952年)を思い出した。この『皇帝のかぎ煙草入れ』を原作に、ヒッチコックが映画を撮っていたら、面白かったんじゃないだろうか。すると、イヴを演じるのはイングリッド・バーグマンかな?
『裏窓』に先んじたばかりか、このシチュエーションに大きなトリックがあるとは、さすがカー! とは思うものの、本人は状況が生み出すサスペンスをあまり意識していなかったのか、書き方がのんびりしているのは、なんだかもったいないような気もする。もっとも、「これはサスペンス風の状況を設定した本格ミステリなのだ」と言われれば、納得するほかないのだけれど。

 本作で重要なのは、ヒロイン、イヴがどんな性格の人か、ということだけれど、もうひとつ、探偵役のキンロス博士がどんな人か、というのも、小説の重要なポイントとなっている(ミステリとしての、ということではありません)。書き込みがやや薄いのが残念で、彼の容貌や立ち居振る舞いを、もう少し書いてくれたら、あの後味良い結末に、さらに心楽しさを添えたかもしれない。映画化するとしたら、彼の役を誰にやらせたらいいだろうか。一見冴えない人でもいいが、悪役でおなじみの人にやってもらうと、面白いんじゃないかな。

 小ぢんまりとまとまった、後味のよいミステリ。ホラー風の演出も密室殺人もないのはカーらしくないかもしれないけれど、広く長く読み継がれるには、なるほど本作はちょうど良いのかもしれない。

『皇帝のかぎ煙草入れ』
ジョン・ディクスン・カー 井上一夫訳
創元推理文庫 2008年第54版(1961年初版)
THE EMPEROR'S SNUFF-BOX by John Dickson Carr, 1941
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