『ラヴクラフト傑作集』など

 高校生の頃に、S・D・シフ編のアンソロジー『マッド・サイエンティスト』(創元SF文庫)で、H・P・ラヴクラフトという作家の「冷気」という短篇に出会った。それ以来、彼に惹かれて、もう四半世紀たったことになる。
 当時は、ラヴクラフトの邦訳は少なく、創元推理文庫の『ラヴクラフト傑作集』二巻を除くと、雑誌やアンソロジーを探すほかなかった。創土社の『暗黒の秘儀』や『ラヴクラフト全集』は、もちろん既に稀覯本で、名のみ聞くばかり。それだけに、『ラヴクラフト傑作集』に収められた七篇と、『怪奇小説傑作集3』(創元推理文庫)所収の「ダンウィッチの怪」は、なんとも貴重で、ちょっとした宝物だった。
「ダンウィッチの怪」といえば、ぼくはこれを、もっと幼い頃、小学三年生のときに読んでいる。子供向けにやさしくリライトしたものだった。お話も挿絵も怖くてたまらないのに読むのがやめられず、読んだ日の夜には悪夢を見た。そこまで強い印象を受けたというのに、著者もタイトルも忘れていて、あとで『怪奇小説傑作集3』を読んだときに、「あ、これだ!」とびっくりした覚えがある。最近になって、当時読んだのが少年少女講談社文庫の『怪談(3)』(1974)に入っていた「ダンウィッチの怪物」(都筑道夫訳、山田維史挿絵)だとわかり、実物を再び手に取る機会も得た。記憶にあるとおりの挿絵と文章だった。
 十代で熱中したラヴクラフトを四十代で読み返すのは、少々勇気のいることだった。あの頃の印象が色褪せていたら、という不安があった。が、それも読みはじめるまでのこと。まずはこれから、と「ダンウィッチの怪」を読みはじめると、ぼくは高校生に戻っていた(いや、小学生かもしれない!)。それほどに、印象は変わらずに鮮明だった。アメリカの田舎町で目に見えない怪物が暴れる話、といってしまえばそれまでで、なるほど荒唐無稽だろう。だが、冷静な文章で、ダンウィッチという町の日常や、住民たちの姿が描かれていくうちに、そんな「ありえないこと」が、現実感を帯びてくる。あるはずがない、あってはならない、でも、ありうるかもしれない……と。そこに、ホラーの真髄があるのかもしれない。
 矢継ぎ早に、今は『ラヴクラフト全集』となった、傑作集の1、2巻を読む。十代と同じ飢渇感をもって。
 寂れた港町にやむなく一泊することになった旅行者が過ごす恐怖の一夜と、その後日譚を物語る「インスマウスの影」。古い修道院の奥で退化の悪夢に憑かれた男が聞く「壁のなかの鼠」の足音。異世界からの干渉を、記録の断片から浮き彫りにしていく「闇に囁くもの」。そして、海底に眠る“神”の目覚めが近いことを、やはり記録の集積から描きだす「クトゥルフの呼び声」。どれもが、科学的な怜悧さで、不可知の深淵の恐怖を物語っている。いずれもドキュメンタリーの形をとった、科学的な怪奇小説、と見るべきか。
(そういえば、ラヴクラフトは少年時代から天文学に造詣が深く、級友たちから「教授」の愛称で呼ばれていた、と仄聞したことがある。また、無神論者であることを公言していた、とも。宗教の匂いがせず、科学的な冷静さで語られるホラーの書き手に相応しい逸話だ。)
 この二巻本を読み返し、その「冷静さ」の極北のように思えたのは(全作品の中には、まだ他にも挙げるべきものがあるだろうが)、「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」だった。先祖の秘密を探究し、生命の神秘を手中におさめようとした青年の体験する恐怖と受難とが、まさに「記録」されている。語り口に感情がないだけに、その恐ろしさは鮮やかで、底知れなく感じられる。
(余談ながら、作中、欧州遊学中のチャールズがトランシルヴァニアに赴くのだが、そのときの滞在先の古城が、立地や外観といい、城主の「男爵」といい、ドラキュラを模したようなのが面白い。加えれば、彼の生命への探究は魔術的な方向に向かうが、それが生理学や解剖学に向かえば、そのままフランケンシュタイン博士のようだ。これはラヴクラフトの、先達たちへのオマージュなのではないか。そう考えると、訳者あとがきでも触れられている、彼の愛着ゆえに生前は発表されなかったことも頷ける。)
 かくも冷静な熱狂ぶりに浸ってみて気づいたのは、「死体安置所にて」や「エーリッヒ・ツァンの音楽」のような、彼の宇宙観を反映していない小品にも、ラヴクラフトは手も気も抜いていないこと。牧歌的な怪談ばなしでも、ポオよろしき幻想譚でも、彼は冷静に、そして鮮やかに、恐怖を物語っている。
 高校生のぼくは、これらを読んで、そのまま飢渇したように、折よく邦訳されはじめた“クトゥルー神話”の数々を読みあさった。ラヴクラフトの持つ熱狂に酔ったのだろう。今のぼくは、さすがにそこまで勢いづきはしないが、この偉大なホラー作家の作品を、あらためてじっくり味わいたい、と思っている。

ラヴクラフト傑作集1』(現『ラヴクラフト全集1』)大西尹明訳 創元推理文庫 初版1974 収録作品「インスマウスの影」「壁のなかの鼠」「死体安置所にて」「闇に囁くもの」
ラヴクラフト傑作集2』(現『ラヴクラフト全集2』)宇野利泰訳 創元推理文庫 初版1976 収録作品「クトゥルフの呼び声」「エーリッヒ・ツァンの音楽」「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」
「ダンウィッチの怪」大西尹明訳『怪奇小説傑作集3』所収 創元推理文庫 初版1969