怪談

 先日、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の作品を、佐野史郎さんが朗読するステージを見た。そういえば、ながらく読み返していないな、と思って、岩波文庫の『怪談』(平井呈一訳)を買ってみた。
 初版が1940年。今、書店に並んでいるのは、1965年(第27刷)に改版されたもので、2007年で80刷を数えている。とんでもないロングセラーだ。おまけに、訳者による解説の出だしが、
「今回、旧版の紙型が磨耗したのを機会に、編集部からの要請で、『怪談』の改訳版を出すことになりました」
というのだから驚く。いったい、この文庫本は、どれだけの部数が存在するのだろう。
耳なし芳一のはなし」や「むじな」「ろくろ首」「雪おんな」など、子供の頃から知っている話なのに、今読み返すと、短いのにとても深いものがある。たしかに、恐い話は恐い。でも、悲しみがあったり、温かみを秘めていたりで、どれを読んでも「優しさ」のようなものを感じる。
 この深みはなんだろう、と考えた。もしかしたらこれは、ハーンが肌で感じた、西洋と日本とのギャップがあるからではないだろうか。
 不思議なものを合理的な理知でとらえようとする世界に育った人が、同じ不思議を肌で感じ、「あるもの」として認めてしまう風土の中に身を置いたとき感じたものが、物語の書き方に反映されているのではないか、と、ふと思った。
 世界各地のさまざまな文化に触れたコスモポリタン、ハーンが、日本に身を落ち着けて感じた、異文化の中の「ゆらぎ」のようなものを、かいま見たような気がする。
 後半の、「虫の研究」も、ときに博物学、ときに比較文学と、蝶や蟻を通してのハーンの思考がさまざまにきらめくようだ。こと「蚊」は、刺された痛みや駆除の方法などをユーモラスに語りながら、自身の死や転生に思いを馳せる一文で、読み終えたら胸にしみこんできた。
 深みや優しさを感じるのは、ハーンの文章にそれがあるからで、それを訳者がとらえて、綺麗な日本語の文章にしているからではないか、とも思う。『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫)の翻訳は名調子だけれど、今読むとあちこち古めかしくて、首をひねるところもある。が、こちらは名調子ではないけれど、古びていない名訳だ。
 訳者といえば、解説の前半が、怪奇小説小論のようになっていて、面白い。ブルワー・リットンの「幽霊屋敷」をハーンが称賛したことを取り上げたついでに、自分がこれを訳している、と、ちょっと宣伝をまじえたり、ポオやラヴクラフトにまで触れていたり。あれれ、これ岩波文庫じゃなかったっけ? などと思ってしまうほどに。
 ホラーとしても、フォークロアとしても、さらにはショート・ショートに類するものとしても、実に味わい深く、楽しい一冊。「ロングセラー」というよりは、「本物」を読んだ手ごたえがある。