月と六ペンス

《諸君は実在する秘密諜報部員やスパイを扱った小説や映画は好きだろうか。諸君はゴーギャンの絵やゴーギャンの人生に関心をもっているだろうか。諸君は男が女に愛想をつかす理由や、女が変わった男に惹かれる理由、さもなくば男が女にすがる理由に興味があるだろうか。/もし、この三つのことがちょっとでも気になるというなら、さっさと『月と六ペンス』を読むべきだ。(松岡正剛)》

 仕事帰りに寄った書店で、このような手書きポップを見かけて、たまらなく読みたくなり、サマセット・モーム『月と六ペンス』(中野良夫訳 新潮文庫 THE MOON AND SIXPENCE by William Somerset Maugham, 1919)を買った。初版は1959年で、1988年の54刷で改版している。ぼくが買ったのは、昨2007年の85刷だ。
 さっそく読みはじめたのだが、途中で、ちょっとした言葉が気になって、ひとつの章を何度も読み返してしまい、なかなか先に進めない。翻訳の上での、ちょっとした言葉の選択にすぎないのだが、こういうことがあると、原文を参照するか、他の人が翻訳したものを読み比べたくなってしまう。どうもこれは、ぼくの悪癖らしい。
 そこで、土屋政雄訳の、光文社古典新訳文庫(2008)のほうも買って、読み比べてみることにした。自分としては、ちょっとハードボイルド風な簡潔さのある土屋訳が好みに合い、結局はこちらを通読することになった。もちろん、中野訳は丁寧で、原文の含みや奥行きを日本語に移した名訳だと思う。もっとも、いくぶん古くなっているところもあるのは否めない。一方、土屋訳には「少々くだけすぎではないか」と思われるところも、ないではない(さすがに、行方昭夫訳の岩波文庫版も加えて、三冊を交互に読もうという気にまではならなかった)。
 読んでみてまず思ったのは、「あ、これはミステリの読者が面白がる小説だな」ということで、ぼくもミステリ好きなものだから、こういう印象の小説に出会ったことはこれまでもあった。その中でも、ことにサスペンスフルだったのだが、書店のポップに使われた、〈松岡正剛の千夜千冊〉にも、まさに「ハリウッド映画のサスペンスを見るつもりで『月と六ペンス』を読むとよい」と書かれている。読んでいる間じゅう、わくわくした。
 平凡な株式仲買人ストリックランドが突然、家族を捨ててパリに行ってしまう。ストリックランド夫人に頼まれた作家は、その理由を求めて彼を捜す。パリの安アパートにいた彼は、イギリスにいたときには関心を示したこともなかった、絵を描くことに情熱を燃やしていた。
 ある人の死にはじまり、その死にまつわる謎を解くのがミステリのお約束だとすれば、この小説は「死」でなく、「生」の謎解きに取り組んでいるようだ。ストリックランドという男が選んだ「生」のありかたはどのようなものか。なぜ、彼はそれまで無関心だった美術に自らを捧げたのか。語り手はパリに、マルセイユに、そしてタヒチにストリックランドを追い、彼の謎を解こうと試みる。
 もちろん、ミステリではないので、明確な解決があるわけではない。さらに、ストリックランドに関わった人々がたどる、それぞれの「生」の謎もからんでくる。夫より芸術に関心が深かったはずのストリックランド夫人、パリの凡庸な画家で好人物のストルーブとその妻、マルセイユでストリックランドと寝食を共にしたニコルズ船長、タヒチで彼の世話をしたホテルのおかみティアレ……人生なんて謎ばっかり、と思えてきて、しかたがない。それでも、読み終えて得られたのは、良い小説が与えてくれる、心の底に響くものと、上質のミステリを読み終えたときに感じるのと同じ、すがすがしさだった。
 この小説は1919年に発表され、たちまちのうちにベストセラーになったという。なるほど、こんなに面白いんだもんな、と、90年後に読んで思う。同時代の小説にはどんなものがあったか、調べてみたくなったが、あいにく手元に資料がない。書店で文学史年表でも探してみようか。

松岡正剛の千夜千冊 第三百三十二夜(2001年7月10日)『月と六ペンス』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0332.html