歯と爪

「彼の名はリュウ。」と始まるプロローグは、ある奇術師を紹介し、彼のやってのけた、ハリー・フーディーニさえ試みなかったような「一大奇術」を、このように紹介して終わる。
「まず第一に彼は、ある殺人犯人に対して復讐をなしとげた。/第二に彼は殺人を犯した。/そして第三に彼は、その謀略工作のなかで自分も殺されたのである」
 なんとも心を捉えるプロローグだ。ここで何か感じた人は、このミステリを読んで失望することはないだろう。
 この本は結末を封じてあって、未開封で出版社に返送したら、代金を返してくれるという「返金保証」をしている。たしかに面白い仕掛けだし、おそらくはこの結末の封印ゆえに、この本は三十年あまりのロングセラーになっているのだろう。だが実は、封印そのものはさほど大きなことではない。物語そのものにある、大きな仕掛けを思えば。
 そしてもちろん、これは仕掛けだけのミステリではない。都会の夜の憂愁を湛えて胸に迫る小説である。
 物語は二つ。一つは、ある事件をめぐり、沈着冷静な検事キャノンと、百戦錬磨の弁護士デンマンが論戦する、法廷での物語。そしてもう一つは、プロローグで紹介された奇術師リュウと、秘密ありげな美女タリーとの、愛の物語である。交互に語られるこれらの物語が、どこでどのように出会うか。仕掛けのある物語のこと、これ以上語る野暮はしますまい。流れに身をまかせ、封印を切る楽しみを味わい、最後までドキドキ、ゾクゾクしてみてください。
 仕掛けに関係のないところで、二つほど書いておきたい。
 まず、リュウとタリーの出会いの場面のこと。タクシーを降りようとして財布を落としたことに気づいたタリーにリュウが声をかけるあたり、映画『キング・コング』(1933)で、空腹のあまりリンゴを万引しようとして八百屋に捕まってしまった女優の卵アンを、映画監督のデナムが救う場面に似ている。ある時代のアメリカでは、こういう出会いの状況は、フィクションにあるお約束だったのか、それとも、あんがい現実的なものだったのか、ちょっと気になった。
 もう一つは、農家の息子リュウが奇術に熱中し、出かけた先のカーニヴァルに飛び込んで、そのまま芸人生活をはじめてしまうくだり。屋台料理やお菓子、見世物小屋や遊具のことなどが、なんとも楽しげに描かれている。こういう情景に出会うたびに、『何かが道をやってくる』はじめレイ・ブラッドベリのファンタジイの数々や、フレドリック・ブラウンの『三人のこびと』などを連想するのだが、カーニヴァルというのは、アメリカ人にとってはノスタルジーのひとつの形なのだろうか。それとも、昔から変わることなく連綿と続いている「楽しいこと」の具象化なのだろうか。
 仕掛けに気を取られていると、つい見逃してしまうが、小説としての細かい要素やちょっとした演出にも、光るものの多い、まさに逸品といえるミステリ。ずいぶん昔に読んだきりだったけれど、読み返して、あらためてその楽しさを堪能した。

『歯と爪』ビル・S・バリンジャー 大久保康雄訳 創元推理文庫 1977年初版(2005年27版)初訳1959
THE TOOTH AND THE NAIL by Bill S. Ballinger, 1955
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