さむけ

「ハヤカワ文庫の100冊」フェアで、結構な点数の既刊がリニューアルされて書店に並んでいる。どれも良いデザインだが、とりわけ目を惹いたのが、ロス・マクドナルドの『さむけ』。ハードボイルド・ミステリの傑作として名高いこの作品、ぼくが前に読んだのはもう二十年も前。これを機に読み返そう、と、本を買った。
 読みはじめて、これが再読であることを忘れるほど、強く物語に引き込まれた。
 私立探偵リュウ・アーチャーの前に、沈んだ目をして現れたのは、アレックス・キンケイドと名乗る青年。新婚旅行の初日に、彼の妻ドリーが失踪した、と彼は言う。すぐにドリーは見つかったが、彼女はアレックスの許に帰る気はない、という。そして数日後、アーチャーが再び会ったとき、ドリーは殺人事件の容疑者になっていた。
 ぐいと引き込むのは、まずは一見単純なように見える事件の深い謎だが、それに加えて、小説自体が湛えている、独特の情感というか、空気というか、文章そのものにもプロットに伍する力がある。描かれるもののイメージが、どれも鮮やかなのだ。昔読んだときは、そこに気づかなかった。歳は取るものだ(?)。
 同様に気づかなかったのは、アーチャーが調査にまわる先々で出会う人々のこと。それぞれが、生きているうちに負わざるをえなかった重荷を背負って生きていることを、長々しい描写はないのに、感じられるように描かれている。そして、その人々の「生」が、ミステリの本筋にもきちんと絡んでいる。
 ぐいぐい読ませるのに、一字一句も読み飛ばせない。
 読者はアーチャーの目を通して、長い歳月と複雑な人間関係が絡み合った事件に踏み込んでいく。その込み入った事件が、じわじわと解きほぐされていく過程は、ミステリの楽しみそのもの。たしかに、ミステリの中のジャンルで分ければ「ハードボイルド」なのだろうし、アーチャーは私立探偵だけれど、ヒラリー・ウォーのフェローズ署長ものと同様に、現実的な「本格ミステリ」の味わいがある。
 そして、物語の終わり、ほんの数ページで、犯人が明らかになる。意外な人物が名指されるのだが、驚く以上に、この犯人像は怖ろしい。こう書いてもネタを割ることにはならないだろうが、ミステリが解決に至ってホラーになってしまった、と思うほどに怖ろしい。謎解きをするアーチャーまでもが、ヴァン・ヘルシングのようにさえ見えてくる。
 二十代で読んだときは、「読んだ」と言えるほど楽しんではいなかった、と気づいた。この傑作に再会するきっかけを与えてくれた、新しいジャケットのデザイナーさんに、感謝します。

『さむけ』ロス・マクドナルド 小笠原豊樹訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 1976年初版、2008年24刷
 THE CHILL by Ross MacDonald, 1963
 カバーデザイン:柳川貴代 写真:Jarno Saren / Gorilla Creative Images
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40804.html