野性の呼び声/海の狼

 短篇集『火を熾す』が面白かったので、ジャック・ロンドンの作品を続けて読んでみた。アメリカ文学という言葉のもと、やや堅苦しい扱いをされている彼の作品だが、『火を熾す』に収録されたものは、彼が生活のため、一般向けの雑誌に書いたものだったわけで、娯楽小説として付き合ってもすばらしく面白いものばかりだった。長篇小説だって、そんなに違いはしないだろう。もちろん、ロンドンの作品が、彼独自の思想に裏打ちされたものであることを、軽く見ているわけではない。ぼくはただ、物語を物語として楽しみたいだけだ。

 まずは、もっとも知名度の高い『野性の呼び声』。数多くの邦訳書が出ているが、最新の深町眞理子訳で読んでみた。
 本作は、バックという犬を主人公にした動物小説、というイメージが強い。たしかにこれは、不自由なく暮らす飼い犬から、酷使され氷原を駆ける橇犬へ、そして一頭の「けもの」に変わっていく犬の物語だ。その一面もあるのだけれど、今回読んで思ったのは、一頭の犬の目を通して見た、ゴールドラッシュに沸くアメリカの群像劇でもある、ということだ。バックの飼い主のように富める者。バックを盗み出し金に換えたその使用人のような、貧しい者。犬に橇を曳かす者たちもまた、時に愚か、時には賢明であり、犬を道具としか見ない者がいると思えば、愛をもって接する者もいる。バックは、内なる野性の声に耳を向けながらも、そんな人間たちを冷静な目で見ている。
 そこから、ロンドンの思想や哲学を読むこともできるだろう。が、そんなことよりずっと重要なのは、この小説がページ数よりははるかに厚く、濃い内容を持っていて、そのうえ「面白い」ことだ。まずは動物小説として、また冒険小説として、楽しく読めばいい。すると、心に残るものができて、もう一度読みたくなる。読み返すと、先に読んだときとはまた違うものが残る……と、繰り返し読み、考え、楽しむことができる小説だ。

 続けて、『海の狼』を読んだ。
 海難に遭った若き文学者ハンフリー・ヴァン・ワイデンは、アザラシ猟船〈ゴースト号〉に救われる。が、船長である〈狼ラーセン〉は、彼に乗組員となることを強制する。船長の恐怖と暴力による支配のもと、地獄船での生活を続けるなか、ハンフリーは心身ともに屈強な海の男になっていくが、ラーセンの謎にも気づいていく。暴力的な独裁者である彼は、文学を愛し哲学を語る、知的で繊細な一面も持ち、やがてハンフリーを友とみなしていく。
 荒々しい北方の海をゆく帆船。それを駆る男たちと、危険なアザラシ猟。それらを描くだけでも、見事な海洋冒険小説になったことだろう。が、ロンドンは、その中心となる船長を怪人物にしたて、語り手を文学者にしたことで、さらに類を見ない、忘れがたい小説にした。中盤、日本近海で起きる「事件」からは、ページをめくる手がもどかしくなり、胸の熱くなる結末まで一気に読んでしまうだろう。どんな事件か、ここに書いてしまっては、これから読む方の興を殺ぐことになる。ぜひ本を手に入れて、海の荒々しさ、海の男たちの粗暴と純真、海獣狩りの凄惨さ、奇矯な船長と怜悧な語り手の哲学議論などにわくわくしながら、この結末を噛みしめていただきたい。
 七度も映画化されたことにも納得。日本での知名度は『野性の呼び声』には及ばないものの、同等の傑作である。

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『野性の呼び声』ジャック・ロンドン 深町眞理子訳 光文社古典新訳文庫 2008(THE CALL OF THE WILD by Jack London, 1903)
『海の狼』ジャック・ロンドン 関弘訳 トパーズプレス(シリーズ 百年の物語4)1996(THE SEA-WOLF by Jack London, 1904)