ポール・オースター《ニューヨーク三部作》

 ジャック・ロンドンの『火を熾す』(スウィッチ・パブリッシング)を読んだら、巻末に、《COYOTE》という雑誌の広告が載っていて、それを見て驚いた。その雑誌のある号に、ポール・オースターの CITY OF GLASS が柴田元幸さんの訳で、『ガラスの街』として掲載されているというのだ。《ニューヨーク三部作》のうち、第二作『幽霊たち』と第三作『鍵のかかった部屋』は柴田さんだけれど、『シティ・オブ・グラス』だけは他の人が翻訳していたから、この雑誌を手に入れれば、三部作がそっくり柴田訳で読める、ということになる。書籍と雑誌では、翻訳著作権の扱いが異なるから、できたことなのだろう。面白い試みだし、翻訳出版の世界を刺激するひとつの方法になるかもしれない。
 思えば、若い頃に『幽霊たち』を読んで「わからないなあ」と思ったきり、オースターには手を出していなかった。これを機に、あらためて読んでみるのもいいだろう。雑誌のバックナンバーを買うなら、ネット書店を使えば便利なのだろうが、昨年十月の《COYOTE》21号を探しに、神保町まで出かけた。身についた習性のようなものだが、どんな雑誌なのかまず手にとってみたい、という気持ちもあった。
 幸い、東京堂書店の海外文学コーナーに、柴田さんの訳書のコーナーがあり、《COYOTE》も並んでいた。MAGAZINE FOR NEW TRAVELERS という言葉が、タイトルの上についているが、旅行雑誌ではない。なんだか「世界の広さが見える雑誌」という雰囲気だ。レイアウトも写真も綺麗で、他の記事も面白そうだ。やはり、書店で見つけてよかった。ネット書店では、届くまでどんな雑誌か、イメージがつかめない。
 神保町まで来たのだから、と、新潮文庫の『幽霊たち』と、白水uブックスの『鍵のかかった部屋』も買い、帰途から《ニューヨーク三部作》の通読にかかることにした。

『ガラスの街』は、間違い電話をきっかけに、自作のミステリの主人公よろしく探偵として行動することになる小説家クインを主人公にしている。電話をかけてきたのはピーターという青年。彼には、言語の秘密を解く実験のため、父親に虐待された幼年時代があり、それゆえに一種独特の言語障害を負っている。彼の父スティルマンは、その言語への妄執ゆえ、精神科病院に収容されていたが、近く退院するらしい。父が帰ってくることを恐れるピーターのため、クインは駅で退院したスティルマンを待ち伏せ、彼の滞在先を確認するや、絶え間ない監視をはじめる。
 スティルマン親子は、哲学者ヴィトゲンシュタインの言語論の世界に生きているようで、ことスティルマンとクインとの言語問答は、『哲学探究』で語られる多様な言語論の、断片を垣間見るようだ。そして、言葉の迷路の中で、クインは行き先も自分自身をも見失ってしまう。
 ……などと書いていて、気づいた。言葉についての物語を要約しようとして、ぼくは無意味な言葉を重ねているだけではないだろうか? この小説が面白いのは、事件らしい事件が起きないのに、クインは洒落た台詞も吐かず格闘もしないのに、ちゃんとハードボイルド・ミステリになっていて、実にサスペンスフルだ、というところではないのか?

『幽霊たち』になると、もっと難しい。主人公は私立探偵ブルー。彼はホワイトという依頼人から、ブラックなる人物を見張り、その行動を報告するよう依頼される。何が起きるでもない仕事をしながら、何も起きてないことを知らせる報告書を、ブルーは書き続ける。
 ここでの言葉は、「書かれたもの」「作られたもの」に進化している。ソローの『ウォールデン』。ホーソーンの短篇「ウェイクフィールド」。ロバート・ミッチャム主演のミステリ映画……。シンプルなのに難解、という印象は、昔読んだときと変わらないけれど、そのときは「面白い」とは思えなかった。今は、面白く読んだ。そして読み終えて、あれこれ考えた。あまりにあれこれ考えて、収拾がつかないので、ここには書かない。

 これら二作のあとで読むと、『鍵のかかった部屋』は、わかりやすいように思える。大量の原稿と妻子を残して、旧友ファンショーが失踪。代理人として原稿を扱うことになった「僕」は、出版した彼の小説がベストセラーになったことに戸惑いつつ、彼の妻と再婚し、彼の伝記を書こうと試みる。
「言葉」が「作品」になり、その「作者」と「読者」とが語られる。《三部作》はおそらく、物語を語ることについての段階を踏んで、このように組み立てられているのだろう。『ガラスの街』と『幽霊たち』とが、微妙につながるこの物語は、モームの『月と六ペンス』にも似たような、創作と生の葛藤のようなものを見せながら、失踪者の過去を追う伝記作家を、犯人の痕跡を追う探偵のように描き、前二作とは異なる、明確な結末を迎える。


 言葉についての物語を語ると、やはり空回りしているような気がしてくる。が、互いに関連をもつ三つの物語が、同じ訳者によって翻訳されたことを、そして、それを続けて読むことができたのを、ぼくは幸運に思う。

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COYOTE No.21 柴田元幸が歩く、オースターの街(『ガラスの街』掲載)2007年10月発行 CITY OF GLASS by Paul Auster, 1985
http://www.coyoteclub.net/catalog/021/index.html

幽霊たち(新潮文庫)1989年初版/2007年14刷 GHOSTS by Paul Auster, 1986
http://www.shinchosha.co.jp/book/245101/

鍵のかかった部屋(白水uブックス)1993年初版/2002年11刷 THE LOCKED ROOM by Paul Auster, 1986
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=07098