吉行淳之介自身による吉行淳之介

 連休のあいだに、東北にある妻の実家を訪れた。
 この前、正月に訪れたとき、ぼくが席をはずしているあいだに、義母は「好き嫌いなくよく食べる婿だ」というようなことを、妻に言ったらしい。東海の生まれのぼくが、地元のものをうまそうに食べるのに、義母は安心したようだったが、四十路にして食べるものに好き嫌いがないことを褒められるのは、なんだか気恥ずかしかった。
 あとで実母にこの話をしたところ、「何も気恥ずかしいことはない。好き嫌いがないのはいいことだ」などと、またぞろ褒めるようなことを言われてしまい、まいった。もっとも、わがオフクロには、幼いころには好き嫌いを言ってずいぶん迷惑をかけたものだが。

 さて、今回の東北行きには、新幹線の車中で読もうと、吉行淳之介のエッセイ集を持っていった。


『なんのせいか 吉行淳之介自身による吉行淳之介1』吉行淳之介著 横山正治編 ランダムハウス講談社文庫2008
http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/books/details.php?id=694

 実は、吉行氏の作品はあまり読んだことがない。ミステリやジャズにも、あまり縁の深い人ではないようだ。だから、なぜこの本を選んだか、自分でもよくわからないのだが、「なんのせいか」強いて言えば、和田誠さんの装丁のせいか。
 いや。和田さんの装丁に惹かれて手にとり、最初の四ページばかり読んで、「あ、こういう文章の書き方は好きだな」と思っただけだ。本とのこんな出合いは、滅多にない。書き出しを読んで、「うーん、こういう文章だと、最後まで読めそうにないな」と置いてしまう本は、とても多いのだけれど。食べるものに好き嫌いがないぶん、読むものに好き嫌いがはっきりしていても、悪いことではないでしょう。
 第一印象はそのまま変わることなく、この本を往復の車中で楽しく読んだ。たとえば、食べ物の好き嫌いが変わっていくことが、表題になった「なんのせいか」で語られていて、なんだか自分のことを読むように思ったのだけれど、そこから吉行氏の経済感覚や女性観の変化につながっていくのが面白い。でも、それが文章の好き嫌いのほうに流れていかないのは、そこがプロというものか。

 この《吉行淳之介自身による吉行淳之介》というシリーズは、吉行氏の担当編集者だった編者が、氏のエッセイを編纂して、本人の言葉で吉行淳之介像を描き出そう、という企画らしい。が、それ以前に、非常に選択の良いエッセイ選集という印象がある。エッセイは発表された年代順に配列されているし、内容も文学や交友、戦争体験や闘病など、バランスよく多岐にわたっている。
「こういう書き方、好きだな」と思ったのは、文章に無駄がないところと、余裕があるところ。どちらも、それゆえに笑わせてくれたり、心の深いところに響いたりで、読んでいるこちらのいろいろな感情や、いろいろな思索を引き出してくれる。
 この無駄のなさと余裕は、どこから来るのだろう。その答えになりそうなものを、第二集『樹に千びきの毛蟲』所収のエッセイからひとつ、「編者あとがき」からひとつ、見つけたような気がするのだけれど、それが答えなのかどうかは、吉行氏の書いたものを、もっと読んでみないとわからない。
 日頃は翻訳ミステリばかり読んでいる奴が、なぜ急に吉行淳之介にはまってしまったのか、などと自問しても、面白いのだから、としか答えようがない。このブログにお付き合いしてくださっている人の中には、「ああ、こういうやつならはまるよな」と、ぼく本人よりもおわかりのかたが、いるかもしれないけれど。


『樹に千びきの毛蟲 吉行淳之介自身による吉行淳之介2』吉行淳之介著 横山正治編 ランダムハウス講談社文庫2009
http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/books/details.php?id=750