名も知れぬ牛の血

 去る七月十六日、後楽園ホールで「OVERHEAT BOXERS NIGHT Vol.49」を観戦した。メインイベントは、OPBF東洋太平洋ライトフライ級暫定王座決定12回戦。家住勝彦(レイスポーツジム)と山中力(帝拳ジム)、OPBFライトフライ級では、一位家住、二位山中と、トップを争う両選手の対戦だ。
 第一ラウンドで山中が、第二ラウンドでは家住が、それぞれダウンを奪うという出だしから、両者とも血を流す激闘となった。第四ラウンド後のジャッジは山中が優勢。家住は苦戦を強いられているように思えた。が、第八ラウンド終盤、家住の猛攻に、うつぶせに倒れこんだ山中はそのまま担架に乗せられ、リングを去った。8R、2分49秒、TKO。チャンピオンベルトを手にしたとき、家住選手の目には涙が浮かんだように、ぼくには見えた。
『キャンバスの匂い』の藤島大さんのような観戦記を書くことは、とてもできないが、とてつもなく大きな力で心を打つ試合で、数日たっても興奮が抜けきらなかったことだけは、ここに書きとめておきたい。全七試合と、日本、フィリピン、韓国の十四選手すべての姿に、胸が熱くなったことも。

 胸が静まり、ミステリが読みたくなってきても、「ボクシングを描いたものはないか」と探す始末。エド・レイシイの『リングで殺せ』は面白かったな、とか、ポール・ギャリコの『マチルダ』は、見世物のカンガルーがチャンピオンと対戦するというアイデアからして奇抜だ、などと思い出しているうちに、ふとひらめいた。
『名も知れぬ牛の血』という奇妙なタイトルの、ボクサーを主人公にしたサスペンスがあったな、と。

 全欧ライト級タイトルマッチで勝利をおさめた挑戦者〈奇蹟のキッド〉ことロジェ・ケルデック。新チャンピオンとなった彼は、試合直後に女優から誘われ、ほんの出来心でその家を訪ねる。だが、メイドに案内された彼が目にしたのは、胸に銃弾を受け倒れる彼女の姿だった! すぐさまロジェは二人の刑事に身柄を抑えられるが、彼らの目的は事件の捜査ではなく、ロジェの優勝賞金を脅し取るほうにあるらしい。無実を証明する手立てのないまま、ロジェの孤軍奮闘がはじまる。
 ハードボイルド調の一人称で語られる、巻き込まれ型のサスペンス。舞台も登場人物も限られていて、ストーリーも謎解きもシンプルだが、それだけに緊迫感は強烈だ。主人公の行動の裏打ちになっているのが、「世界チャンピオンを目指すか、最愛の妻の言葉に従って、体を壊す前に引退するか」という葛藤で、それが短い物語に厚みを持たせている。
 事件の背景にあるものや、ロジェを罠にかけるトリックは、今の目からすると古めかしいことだろう。だが、さりげなく情感を配しながらも無駄なく研ぎ澄まされた展開といい、事件の陰に隠されたもうひとつの謎が解かれたあとの、エピローグの優しさといい、近年のミステリではちょっと味わえない、独自の妙味がある。なお、第一章はまるまる試合のシーンで、作者ノエル・カレフにボクサーの経験があるせいか、臨場感に溢れている。
 カレフの代表作『死刑台のエレベーター』さえ入手困難な現在、本作の復刊はまず望めないだろう。だが、名画座で見る70〜90分ほどのモノクロ映画のようなこの味わい、埋もれさせておくには、もったいない。

『名も知れぬ牛の血』(のちに改題『ミラクル・キッド』)ノエル・カレフ 宮崎嶺雄訳 創元推理文庫1963
LE SANG D'UN BOEUF ANONYME par Noel Calef, 1960