海底二万海里

……彼(ヴェルヌ)は単なる科学的紙上発明者なのではなく、むしろ秀れたストーリー・テラーであり、冒険ロマンの先駆者なのである。
    石上三登志「〈キング・コング学〉入門」(1976)より

 ぼくは子供の頃、スティーヴンスンやヴェルヌに出会う前に、アポロ11号のアームストロング船長が月に立つのを見ていたし、『宇宙船ビーグル号の冒険』や『惑星間の狩人』に熱中していた。この地球にある未知の領域よりも、宇宙に夢を抱いていた。だから、けっこう長いあいだ、ネモ艦長もフォッグ氏もジョン・シルヴァーも一緒くたで、「昔の人」でしかなかった。
 でも、大人になって、ヴェルヌが「冒険ロマン」の「秀れたストーリー・テラー」であることに気づいて、あれこれ読んでみると、「昔の人」だなんて、子供の考えとはいえ大きな誤解だったと痛感した。

海底二万海里』を読んで、あらためて思ったのは、1872年に書かれたこの小説に古ぼけたところはなく、ヴェルヌも、彼が描いたネモ艦長も、けっして「昔の人」なんかではない、ということだった。
 潜水艦が夢の乗り物ではない今から見ても、美術館や図書館まで内蔵する、まるで小ユートピアのようなノーチラス号と、その無限の動力には、憧れの目を向けるほかない。そして、陸上の生活を捨ててこの潜水艦に生きるネモ艦長が抱く夢は、十九世紀後半においても心ある人々の悲願だったことだろうが、未だ叶えられてはいない。たしかにヴェルヌは紙上の発明家でもあった。が、彼は発明を描くだけではなく、その発明を生み出した思想と、それがもたらすものをも描いていた、ということを、あらためて感じさせる。
 物語は、実はごくシンプルで、七ヶ月にわたり世界中の海を巡る潜水艦への搭乗記、といってしまえばそれだけなのだが、舞台は海底。陸上海上は知っているつもりの人間にも、未踏の地だ。だから、ちょっとしたことでも驚異であり、冒険のきっかけとなる。海底の風景やさまざまな生き物に、語り手のアロナックス教授ともども、驚きつづけることになる。登場する動植物の名前だけ拾って索引を作りたくなるほどに、この海洋冒険物語には、どこを開いても博物学が横溢しているのだ。
 もちろん、それだけではない。海に想像力を馳せた詩人や小説家たちを紹介する「海の文学入門」でもあるし、さらに大きなものに出会えるよう、ヴェルヌはさまざまなものを潜ませている。それらは、読み返すたびに立ち現れてくるだろう。
 舞台となる海のように、とてつもなく大きく、豊かな物語だ。どんなに豊かなのか、また語りたくなるときが、遠からず来るだろう。読み返して、そのたびに二度目、三度目と、感想を書きたくなるだろう……などと書いていたら、今回読んだ福音館文庫の訳者あとがきに、このような一節があるのを見つけて、驚いた。

 もとより文学作品は、読者の関心のちがいや、読むときの年代によって、いろいろな読み方や、たのしみ方があるものです。訳者も子どものころ読んで受けた印象と、こんど原作ぜんぶを読みなおして味わった印象との大きなちがいや、新しいかずかずの発見におどろいたものです。

海底二万海里』上下巻 ジュール・ヴェルヌ 清水正和訳 A・ド・ヌヴィル画 福音館文庫(2005年初版、2008年第2刷 1973年単行本刊)
VINGT MILLE LIEUES SOUS LES MERS par Jules Verne, 1872