瀬戸川猛資『夢想の研究』

 この本の「まえがき」に、こんな言葉が引用されている。

半ぶん大人の少年か
半ぶん少年の大人が
ひとときなりとも楽しめればと
下手な趣向を凝らした次第

 コナン・ドイルの『失われた世界』の巻頭にある四行詩だ。この「まえがき」に書かれているように、これを省略している訳書は多いようだし、この引用には訳者の名前がないから、おそらく瀬戸川さんが御自分で訳したものだろう。
『失われた世界』が、秘境を旅して未知の生物を追う物語であるように、この『夢想の研究』は、「活字と映像の想像力」という副題どおり、小説や映画の作品世界を旅して、それらの向こうにある新たな世界へ、想像力を駆使して踏み込んでいく本だ。冒険と発見の喜びにあふれているところは、共通している、と言っていいかもしれない。
 こんなにも不思議で、楽しい本は、ちょっと類を見ないだろう。瀬戸川さんが語れば、『十二人の怒れる男』や『ロジャー・ラビット』はもちろん、『市民ケーン』だって本格ミステリになる。忠臣蔵の隙間から、ラヴクラフトが長い顔をちょっと見せる。猫の話を書く前の夏目漱石が、大人になって熊の話を書くとは夢にも思わないA・A・ミルン少年とすれ違う、霧のロンドン。ミステリ史上屈指の「名犯人」に見る、ある天才科学者の面影。ひとつひとつ取り上げるぶんには、誰もがよく知っているような作品や人物が、瀬戸川さん自ら「得意」と言う珍説・奇説の中で出会うと、突然、違った姿を見せはじめる。もちろん、ただの珍奇なだけの発想で、このようなことはできない。驚くべき博覧強記で繋ぐ論理の行き着く先に、「どうだい!」と言いたげな悪戯小僧の笑顔が見える。そのあまりにも頭脳明晰な悪戯小僧は、ミステリやSFに熱中し、足取りもわくわくと映画館に通い、教養と経験を得た大人になっても、子供のまま遊び続けている。そして、近づく人々はみな、彼の遊びに引き込まれていく。そんな楽しい推理が二十八章も、さして厚くないこの本に詰まっている。
 大人の教養と思考に加えて、少年の茶目っ気や悪戯心を持った瀬戸川さんだからこそ、書くことができたのだ。
 この本をはじめて読んだ若いとき、「瀬戸川さんのような大人になりたい」と思った。もちろん、それは叶わないことだ。でも、瀬戸川さんのように「在る」ことは、もしかしたらできるかもしれない。読み返して、あらためてそんなふうに思うぼくもまた、きっとまだ半分子供なのだろう。

瀬戸川猛資『夢想の研究』早川書房 1993 → 創元ライブラリ 1999

《追記》
和田誠 川本三郎 瀬戸川猛資『今日も映画日和』(文藝春秋 1999→文春文庫 2002)の「あとがき」(川本三郎)より、『夜明けの睡魔』の引用のあと、そこから川本氏が感じた瀬戸川さんの印象を書いた部分。
「こう書く瀬戸川さんのちょっと得意そうな、うれしそうな顔が思い浮かぶ。学校の勉強なんかよりもSFが好き。ここには。いまや絶滅寸前にいる「男の子」がいる」