ドン・ウィンズロウ『犬の力』

 1970年代半ばから90年代末にかけて、合衆国と中米をおもな舞台に、麻薬戦争の渦中で生きる人々を描いた群像劇。この物語が、どこまで事実にもとづいているか、ぼくは知らない。だが、ありうることであり、ここに描かれていることは、今もなお繰り返されているのだろう、と思わせるだけの力強さを持っている。
「YOYO」という言葉が、何度も出てくる。You're on your own. 「自分の道は自分で拓け」。汚れきった凄惨な世界。敵も味方もわからない。国家も法律も、宗教でさえこの世界では無力だ。頼りにできるのは自分だけ。DEA捜査官が、麻薬シンジケートの頂点に上り詰めるメキシコの元警察官とその甥たちが、ヘルズ・キッチンの外に踏み出していくアイルランド系の青年が、高級娼婦の道を選んだブロンドの少女が、麻薬と硝煙と血にあふれる世界で、自分の道を拓いてゆく。
 裏切り、暗殺、拷問、拉致、報復、大量殺人……この世界で起きる出来事は暗く、酷い。だが、物語そのものは乾いていて、時に爽快でさえある。さらに、隅々まで作者の目が行き届いている。しっかりと作りこまれた舞台背景に、実在感にあふれる登場人物たちを置いて、あとは自ら動くにまかせているかのように。もっとも、これは物語をつくる古典的な手法だろう。古典的だからこそ、胸に深く響く。そして古典的なぶん、通俗的である。この「通俗」というのは賛辞だ、と念のために書き添えておこう。ディケンズユゴーも、シェイクスピアだって通俗な娯楽なのだから。それらが持っている、通俗娯楽小説の根底にあるものを、二十一世紀の本作は再認識させてくれる。
 おそらくは、ウィンズロウの小説の中でも、本作はひときわ大きな存在になることだろう。そして、この大作が、原書刊行から四年ほどで、しかも優れた訳文で、さらには廉価な文庫本で出版されたことも、称賛すべきだろう。
『犬の力』上下 ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳 角川文庫 2009
THE POWER OF THE DOG by Don Winslow, 2005
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200505000177
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