スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』

 読んでもいないのに読んだつもりになっている本といえば、この『ジーキル博士とハイド氏』もその代表格になってしまうのだろう。こう書いているぼくも、子供の頃から題名を知ってはいながら、最初に読んだのは創元推理文庫の『ジキル博士とハイド氏』(夏来健次訳 2001)なのだから、かなり最近のことだ。このたび、光文社古典新訳文庫から、『宝島』と同じ村上博基訳で刊行されたので、あらためて読んでみた。
 面白いのは「訳者あとがき」で、村上氏も翻訳の話がもちかけられるまで本作を読んだことがなく、身近にも読んでいる人はいなかった、というようなことが書かれている。どうやら、知っていても読んでいない人は、まだまだ大勢いるようだ。
 さて、あらためて読んで、面白さに舌を巻いた。どんな話か知っていても面白いのだから、脱帽するほかない。シャーロック・ホームズと同時代のロンドンの物語であり、名探偵こそ登場しないものの、奇怪きわまりない事件の謎を解くミステリであり、真相が明かされると、サイコ・ホラーの先駆のようにも読める。新発明の薬品による変身、というSF的なアイデアの嚆矢でもあり、追ってウェルズの『透明人間』(1897)や、ドイルの『シャーロック・ホームズの事件簿』(1923)所収のある一篇につながっていくのだろう。いや、ミステリやSF、ホラーの古典としてだけではなく、本作が今も面白さを失っていないのは、「悪人への憧れ」が、誰にもあるからではないだろうか。あらためて、その点を考えさせる新訳だった。
 もちろん、この新訳はこれまでの翻訳とは大きく異なる、ということはない。ふと思い立って、本書を読み終えてすぐ、創元推理文庫版を読み返してみたが、作品そのものの印象が変わることはなかった。もちろん、訳者の個性はそれぞれに出ている。たとえば、夏来訳では「マザー・グース」などを踏まえた比喩がそのまま出てくるが、村上訳ではそのような比喩は意訳している。どちらが良いか、ということはないと思う。同じ豆を使っていても、煎り方、淹れ方でコーヒーの味が変わってくるようなものだろう。
 なお、解説(東雅夫)で、本作を原作にした戯曲を見た日本人が観劇記を書いているのを紹介しているのが面白いが、同じ人物が「切り裂きジャック事件」に言及しているというのだから、さらに面白い。ロンドンでの動機のない殺人事件を描いた本作が発表された二年後に、やはりロンドンで連続通り魔事件が起きている。直結することはないのだろうが、かの地の深い霧を、ふと目のあたりにしたような気がした。

THE STRANGE CASE OF DR.JEKYLL AND MR.HYDE by Robert Louis Stevenson, 1986
ジーキル博士とハイド氏』スティーヴンスン 村上博基訳 光文社古典新訳文庫 2009
http://www.kotensinyaku.jp/books/book94.html
ジキル博士とハイド氏』ロバート・ルイス・スティーヴンスン 夏来健次訳 創元推理文庫 2001
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488590017