沢木耕太郎『一瞬の夏』

 カシアス内藤を見た。
 この秋に開かれた、ボクシング関係のあるイベント会場でのことだ。黒い肌の大きな人が、スパーリングを終えた少年の肩を叩きながら話しかけていた。E&Jカシアス・ボクシングジムの内藤会長だ。身のこなしや目の光には、気おされるような凄みがあるのに、大きな手や、かすれた低い声には、その子の父か祖父であるかのような優しさがあった。
 この人は、いったいどんな選手だったのだろう。カシアス・クレイ=モハメッド・アリにちなんだリングネームと、元東洋ミドル級チャンピオンであることしか知らない。帰途、書店に寄って、彼のことを書いた本を探すと、二巻本の文庫がすぐに見つかった。沢木耕太郎著『一瞬の夏』。初版からもう二十五年もたっているのに、町の本屋の棚に普通に並んでいる。そんな本なのに、まだ読んでいなかった。
 読み終えてまず思った。こんなに面白い本なのに、どうしてもっと早く読まないでいたんだろう!
 一度は頂点に立ったが、いつしかリングから姿を消したボクサーと、彼の復帰をめぐる人々を、書き手であると同時に試合にも関わった著者が、自らの目で見たままに描いていく。見たままだというのに、というべきか、見たままだからこそ、といったほうがいいのか、すばらしく面白い。試合ひとつでも、実現させるまでは容易ではないのだが、その過程を記録するだけで、実にサスペンスフルで、ページを繰る手が止まらないのだ。現実がここまで面白いと、小説の立つ瀬がない、と言いたくなるほどに。
 読み終えて、間近に感じた元チャンピオンの凄みと優しさの理由がわかった。そして、彼に声をかけられていた少年が、遠くない未来にチャンピオンになるかもしれない、とも思った。

『一瞬の夏』(上下)沢木耕太郎著 新潮文庫1984(初刊1981)
http://www.shinchosha.co.jp/book/123502/ http://www.shinchosha.co.jp/book/123503/
E&Jカシアス・ボクシングジム
http://okepi.com/cassius/