ジョー・ゴアズ『スペード&アーチャー探偵事務所』

 ダシール・ハメットの『マルタの鷹』は、読んではみたものの、面白さのわからない小説だった。まあ、仕方がないだろう。読んではみたものの、などと言っている奴が中学生だったのだから。もっとも、子供向けのミステリ入門書の名探偵紹介欄では、サム・スペードはいかにも恰好よさそうに書かれていて、背伸び盛りの子供としても興味を惹かれるキャラクターだったのだが。
 それが、愛読書に一転したのは大学生の頃。当時のぼくは映画館に入り浸っていた。朝入って同じ映画を繰り返し見て、外に出ると夜、なんてぐあいに。ニュープリント上映の『マルタの鷹』(1941)を最初に見たのは、新宿のシアターアプルだったか、千石の三百人劇場だったか。ものすごく興奮して、帰りに本を買い、映画の印象を忘れまいとすぐさま読みふけったことを覚えている。本はちょうど出たばかりの、河出書房新社の小ぶりなハードカバーで、訳者は小鷹信光さんだった。そういえば、ニュープリント版の字幕も小鷹さんのお仕事じゃなかったっけ?
 こんな昔話を書いてしまったのも、この『スペード&アーチャー探偵事務所』を読んでいるうちに、その頃のことを思い出したから。ハメットの遺族公認の、この『マルタの鷹』前日譚は、読みはじめてすぐ、ハメットの未発表作品に巡り合ったような気がした。それだけでもうゴアズには脱帽するほかない。ただ、ゴアズの描くサム・スペードはどこかしら飄逸。原典で彼を紹介している箇所の「ブロンドの陽気な悪魔」(だっけ? すみません、いま手元に本がないもので)の「陽気な」印象を強めているようだ。たとえば、秘書エフィー・ぺリンとのやりとりなんて、彼女の初登場シーンから楽しい。
 物語は、スペードが〈コンチネンタル探偵社〉を退社して独立する1921年にはじまり、銀行家変死事件を追う1925年、探偵仲間のマイルズ・アーチャーをパートナーとして迎える1928年と、三部に分かれている。三つの事件の裏にいる一人の犯罪者を追う物語になっているのは、中篇をつないだハメットの長篇作法の踏襲かもしれない。でも、犯人や原典の登場人物だけではなく、たとえばスペードの事務所と同じビルで開業している弁護士や、第一部で密航を企てた少年、第二部でエフィーが紹介する依頼人などの存在感が強く、七年という時間の経過とあいまって、読み応えのある長篇に仕上がっている。
 読み終えて、『マルタの鷹』はもちろんだけれど、やはりゴアズの『ハメット』も読み返したくなった。
 原典をまだ読んでいない、という人には、これを読んだあと、かのハードボイルドの古典的名作を読む楽しみがあるのがうらやましい。この本が評判になると、『マルタの鷹』も売れるだろうし、ゴアズの未訳作が邦訳されたり、埋もれた旧作が復刊されたりするかもしれないから、多くの読者が手に取ってくれるよう、祈ります。

『スペード&アーチャー探偵事務所』ジョー・ゴアズ 木村二郎訳 早川書房 2009
SPADE & ARCHER by Joe Gores, 2009
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/113353.html