ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴』

 一九九六年、ボスニア・ヘルツェゴビナ。幻の書『サラエボ・ハガダー』発見の報を受け、オーストラリアの古書鑑定家ハンナ・ヒースは、サラエボ国立博物館へ急行した。五百年前スペインで制作されたといわれる、このユダヤ教の祈祷書は、百年ものあいだ所在不明だったのだ。一度壊され、雑に作り直されたかのような装丁。だが、羊皮紙のページには、戒律に背くほどに美しい細密画が広がる。この古書に残るさまざまな痕跡をハンナが調査するうち、その「来歴」が明らかにされていく。
 蝶の羽、ワインの染み、塩の結晶といった痕跡を、ハンナが最新の科学技術を駆使して鑑定していく過程には、ミステリの味わいがある。そして、それぞれの痕跡を題に掲げた章では、時代も場所も異なる人々の物語が語られていく。が、それらは、痕跡から検証されたものではなく、本のみが知る物語だ。ナチのユダヤ人迫害から異端審問に遡っていくその遍歴は苦難に満ちている。しかし、だからこそ、それでも懸命に生きていく人々の姿が胸に迫ってくる。さらに、鑑定のかたわら、ハンナ自身の物語が語られていく。古書に痕跡を残した過去の人々と同様、彼女もまた懸命に生きている。時代を越えて語られていく、ひたむきな「生」。PEOPLE OF THE BOOK という原題の意味が響いてくる。
 それだけでも、素晴らしい小説だ。だが、それだけでは終わらない。古書鑑定の過程に感じられるミステリの味わいは、その部分だけではないのだ。だから、読み終えたとき、もうひとつの思いが加わる。「これは、素晴らしいミステリでもある」と。
 なお、本書の装画・装丁(柳川貴代 + Fragment)は、内容にふさわしく美しい。たたずまいも、細部も、表紙の手触りさえも、小説同様に何度も味わいたくなる。

『古書の来歴』ジェラルディン・ブルックス 森嶋マリ訳 ランダムハウス講談社 2010
PEOPLE OF THE BOOK by Geraldine Brooks, 2008
http://www.tkd-randomhouse.co.jp/books/details.php?id=873