デイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』

個人的な思い出ばなしから、はじめさせていただきます。

ポケミス」こと、「ハヤカワ・ミステリ」という翻訳ミステリのシリーズを知ったときほど、わくわくしたことはない。通し番号、抽象画の表紙、ビニールカバー、黄色い小口といった、他に似た本のない装丁からして、いかにも大人の読むもののように見えた。
 大人の世界に近づきたくて、背伸びして初めて買ったのが、1333番、エド・マクベイン『煙の立つところ』。あまりにおかしな話で、びっくりしたのを覚えている。「翻訳作品集成」(リンクは下記)で調べてみたら、1979年の刊行だというから、当時ぼくは中学生だった。ということは、ときどき中断もあったけれど、ぼくはかれこれ三十余年も、ポケミスを追いかけていることになる。背伸びする歳ではなくなってはいても、まだ読んでいないポケミスを手にしたときの、わくわくする気持ちは、不思議なことに今も変わらない。
 その「ポケミス」の表紙装画を長年手がけてこられた勝呂忠さんが、三月の十五日に亡くなった。最後のお仕事が1837番、カミの『機械探偵クリク・ロボット』。楽しくその本を読んだあと、長年のお仕事への称賛と感謝をこめて、勝呂さんを笑顔で送ろうと思った。

 そしてこの八月、ポケミスは新しくなった。三戸部功さん最初の装丁、1838番、デイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』。半世紀以上続いた装丁の最後の一冊である『機械探偵クリク・ロボット』とこれを並べてみて、新しいのもいいな、と思った。自由度の高い装丁になるようだから、続刊が楽しみだ。
 この『卵をめぐる祖父の戦争』、「えっ、これもポケミス?」と、読みはじめたときはちょっと驚いたが、実に面白い。

「ナイフの使い手だった私の祖父は十八歳になるまえにドイツ人をふたり殺している」作家のデイヴィッドは、祖父のレフが戦時下に体験した冒険を取材していた。ときは一九四二年、十七歳の祖父はナチスドイツ包囲下のレニングラードに暮らしていた。軍の大佐の娘の結婚式のために卵の調達を命令された彼は、饒舌な青年兵コーリャを相棒に探索に従事することに。だが、この飢餓の最中、一体どこに卵なんて?――戦争の愚かさと、逆境に抗ってたくましく生きる若者たちの友情と冒険を描く歴史エンタテインメントの傑作。(裏表紙の紹介文)

 驚きはしたが、冒険を作るのは状況。「ドイツ軍の要塞に潜入し破壊せよ」とか「連合軍の上陸地点をベルリンに報告せよ」とかの使命に劣らず、この「卵を調達してこい」というミッションは、危険と苦難に満ちている点では劣らない。この使命を背負うのは十代の少年ふたり。空腹と恐怖を下ネタの軽口でまぎらわせながら、卵を求めて旅をする。
 旅の供は厳寒と飢え。目に飛び込んでくるのは、戦争がもたらした理不尽と悲惨。でも、そんな中だからこそ、減らず口をたたいて笑う。女の子を思って悶々とする。そんな二人の卵探しは、やがてドイツ軍相手の、思いもよらぬ大作戦へと発展していく。
 語りがユーモラスなだけに、戦争の悲惨さはことさら強く伝わってくる。メタフィクションの形を取る物語や、文学をめぐるレフとコーリャの会話など、深読みができる書き方をしてもいる。でも、なんといっても、これは痛快このうえない冒険小説なのだ。ぼくは読みだしたら止められなくなって、一息に読み終えてしまった。そう、たとえば『ナヴァロンの要塞』や『深夜プラス1』を、初めて読んだときのように。そういえば、名作の誉れ高いこの二篇の冒険小説も、ポケミスから出ていたんだっけ。

『卵をめぐる祖父の戦争』(ハヤカワ・ミステリ1838)デイヴィッド・ベニオフ 田口俊樹訳 早川書房 2010
CITY OF THIEVES by David Benioff, 2008
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/211838.html
「翻訳作品集成」http://homepage1.nifty.com/ta/index.html