団鬼六『真剣師 小池重明』

 ぼくは将棋のことはよく知らない。賭け将棋ならば、なおさらに。小池重明(こいけじゅうめい)という人のことも知らない。だが、本書の「まえがき」に惹きつけられた。「異端のアマ超強豪」で「新宿の殺し屋」と呼ばれた彼は、己が心の清濁明暗の狭間をさまよい続け、そこに著者は「不可思議な魅力」を感じたという。
 読みはじめたらとまらなくなった。本を持つ手が震え、胸が熱くなった。将棋の知識がないことさえ忘れていた。それほどまでに、この本は面白い。現代の将棋の世界を舞台に、実在の人物について書いているのに、読むうちに剣豪物語のように思えてくる。
 小池は将棋の天才でありながら、酒とギャンブルとで失敗を繰り返し、一度ならず人妻と駆け落ちし、目の前に拓けた栄光への道にさえ、あっさりと背を向けてしまう。それでいて、数年のブランクがあっても、いざ対局となればプロ棋士たちをやすやすと捩じ伏せる。その特異な戦法を、著者は一度ならず「魔剣」と喩える。
「新宿の殺し屋」として名の広まった彼に、大阪の真剣師、「鬼加賀」こと加賀敬治が挑戦。通天閣での十番勝負に至る。その一部始終を書いた章は、まさに剣豪同士の対決のようで、身震いするほどの緊張感が、文章にみなぎっている。さらに、将棋界を追われ放浪したのち、小池は著者のもとで「果たし合い」として、アマ、プロ問わぬ名人たちと戦い続ける。その顛末を語る章からは、御前試合で達人たちを次々と討ち倒していく酔いどれ浪人の姿さえ浮かんでくる。まさに魔剣、まさに真剣勝負。戦いに何を用いても、勝負に臨む心が変わることはない、ということなのだろうか。
 読み終えて、沢木耕太郎の『一瞬の夏』を、なぜか思い出した。将棋とボクシング、どちらも一対一の勝負だが、小池重明カシアス内藤を「不遇の天才」というだけで平たく並べることはできない。今はジムを構え後進の指導に熱意を注ぐカシアス内藤には、会うことはもちろん教えを請うこともできる。だが、二十年近く前に死んだ小池重明の姿は、このような記録からしかうかがうことはできない。ならば、なぜこのような連想をしたのだろう。
 ふと気づいた。勝負に生きる男がいる。その姿をそばで見続けた男がいる。生きること。その「生」を直視し、記録すること。書く者と、書かれる者との間にもやはり「勝負」に似たものがあるのではないだろうか。
 これから先、生きているのが苦しくなったら、そのたびにこの本を読み返すことだろう。

真剣師 小池重明団鬼六 幻冬舎アウトロー文庫 1997(初刊・イーストプレス 1995)
http://www.gentosha.co.jp/search/book.php?ID=200059
小池重明Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E9%87%8D%E6%98%8E