マーク・コーエン『フラクタル連続殺人』(未訳)

 全体にユーモアがあって洒落た雰囲気で、展開も会話も小気味よく、筋に仕掛けやひねりが利いている。そんなミステリが読みたくなった。いくらでもあるよ、と言われそうなものだけれど、読みたくなったときには、不思議なことに見つからない。
 とりあえずは、軽めの私立探偵ものから探してみたが、読みたいものにはなかなか巡り合えない。最近評判のいい日本の「ユーモア・ハードボイルド」ものも読んでみたけれど、失望しただけだった。フィリップ・マーロウかぶれの中年男がずっこけてみせるのを笑うなんて自虐的な楽しみ方は、ぼくにはできない。
 そういえば、マーク・ショアの『俺はレッド・ダイアモンド』は面白かったな。自分の空想の中でタフな探偵レッド・ダイアモンドに変身するタクシー・ドライバーの大冒険。『ドン・キホーテ』の騎士道物語をパルプマガジンの探偵小説に置き換えたようで、物語のヒーローたちと、かれらを愛する読者への共感が、ギャグを裏打ちしていた。読み返したくなったが、今は手に入りにくいようで、残念だ。
 ふと、何年か前に読んだペーパーバックを思い出し、ひっぱり出してみた。マーク・コーエン(Mark Cohen)という人の、FRACTAL MURDERS というミステリ。2002年に自費出版されて評判になり、2004年にはワーナー・ブックスからあらためてハードカバーで出版されたものだ。
 舞台はコロラド州ボールダー。私立探偵ペッパー・キーンは、数学者ジェイン・スマイヤーズ教授から奇妙な依頼を受ける。フラクタル幾何学を研究している数学者が三人、アメリカのあちこちで殺された。研究以外の共通項はない。やはりフラクタル幾何学を研究をしている彼女は、身辺に不安を感じているが、FBIには相手にしてもらえないので、三つの事件を調べてほしい、というのだ。
 ジェインに一目惚れしてしまったペッパーは、相棒の物理学者スコット・マッカチャンとともに、ワシントン、ネブラスカ、ボストンを駆けまわり、旧友のFBI捜査官、マイクル・ポークの渋面を尻目に調査を進める。やがて彼は、〈ガウス〉と名乗る謎の数学者が三人とかかわっていたことをつかむ。さらに、一連の事件の背後にはCIAが……?
 ペッパーは元弁護士。恋人の事故死が原因で法律事務所を辞職し、元の職場から依頼される調査仕事で生計を立てている。犬とコカコーラを愛し、駄洒落を連発したかと思えば、沈み込んで精神安定剤に頼ることもある。
 内向的な彼の脇を固めるのが、陽気な中年探偵団。弟トロイはボディビルダーで力仕事担当。相棒のスコットはハッキングとナンパが趣味。ペッパーの世話をあれこれ焼くのが元同僚の弁護士マット。トロイの親友ジェフはパイロットで、空のタクシーよろしき役割。ペッパーのおじのクレイジー・レイはアルコール依存症だが射撃の名手。本作では、ペッパーとともに行動するのはおもにスコットで、二人のやりとりにはジョー・R・ランズデールのハップとレナードの掛け合いを思い出す。あちらの下ネタはないものの、話題の振り方が珍妙で、こちらも漫才さながらの可笑しさだ。
 こんなお話なのに、実は謎解きミステリで、解決場面では関係者一同を集めてペッパーが犯人を名指すのが痛快だ。ぼくには犯人は見抜けなかった。アンフェアか、と疑いたくなったが、読み返すとむしろ伏線の巧みさに脱帽するばかり。「本格謎解き私立探偵コメディ」とでも言おうか。盛りだくさんなのに長くもなく整然としているのにも、あらためて驚いた。
 本作には、BLUETICK REVENGE (2006) という続編がある。離婚訴訟の依頼人の愛犬を、極右団体のリーダーである夫から奪還するようマットに頼まれ、ペッパーがアジトに侵入する、というのが発端。さらに、そのリーダーから人探しの依頼を受けるが、二つの事件が過去の殺人事件を掘り出してしまう、という話で、まるで先が読めない。それでいて前作同様、見事な結末を見せるという、これまた痛快な一作だ。
 残念なのは、この二作以降、著者が創作活動を休止しているらしいことで、これは作家が本業でないからやむを得ないことかもしれない。趣味で始まったシリーズだから、突然に第三作が発表される、ということもありそうだけれど。
 この作家、数年前にある翻訳家のかたに薦められて知ったのだが、翻訳家が薦めてくれたということは、いずれは邦訳されるのだろう。気長に待つとしようか。

FRACTAL MURDERS (2004), BLUETICK REVENGE (2006), by Mark Cohen. Warner Books
著者HP http://www.pepperkeane.com/index.html

(面白い未訳作を紹介するのも、翻訳ミステリ支援になると思い、このようなものを書いてみました。自分の勉強にもなるので、ときどきはこんな記事も書いてみたいと思います。)