マイクル・コナリーおぼえがき

 この夏は、マイクル・コナリーの長篇ミステリを読むのに費やした。邦訳されたもの十七作、どれひとつ外れがないことに、あらためて脱帽した。初めて読むものはもちろん、再読したものはなおさらに、その面白さに驚きっぱなしだったのだ。
 十余年にわたって、長篇を十七作も書いているのだから、どこかで悩んだり、新たな試みをして失敗したりということも、ありそうなものだ。いや、コナリーにもそんなことはあったのだろう。でも、書いたものからは、まるで感じられない。読者個々の好みはあるだろうけれど、読んで落胆するようなものはひとつもない。「コナリーはどれから読めばいい?」という質問をよく耳にするのも、質の高さのあらわれのひとつなのだろうか。
 ちょっと空想して遊んでみることにしよう。扶桑社、講談社早川書房講談社と、出版社を移しながら邦訳が続いているコナリーが、どこか別の出版社から、まとめて出ていたら、どんなふうになるだろう。
 たとえば創元推理文庫で、それも昔の、ジャンルをマークで表示していた時代に出ていたら、と考えてみた。すると、ハリー・ボッシュものは「ハードボイルド、警察小説」の拳銃マークになるのは、まちがいない。『わが心臓の痛み』も同じだろう。『バッドラック・ムーン』や『チェイシング・リリー』は「サスペンス」の猫マーク、『リンカーン弁護士』は言うまでもなく「法廷もの」の時計マークだが、ここで悩むのが『ザ・ポエット』。これは猫マークと拳銃マーク、どちらが収まりがいいのだろう。
 いや、いっそ一つのマークにしてしまおう。あの「横顔に疑問符」の本格推理マークだ。捜査活動をリアルに描くさまは警察小説だし、主人公と文体はハードボイルドでも、コナリーのミステリはどれをとっても、謎解きの面白さと、読者を驚かせる仕掛けに、いちばんの力点を置いている、と、ぼくは思っている。たとえば、ポリス・アクションの映画を見るような『ブラック・アイス』に潜む、ミステリ・マニアを切歯扼腕させる仕掛けや、『チェイシング・リリー』で窮地のどん底から駆け上がっていくような、主人公の鮮やかな謎解きを前にすると、コナリーが自作の中で「謎とその解決」を最重視しているように、思えてならない。
「コナリーを読むときは、できるだけ予備知識を持たないように」というようなことが、あとがきや解説で、たびたび書かれている。ぼくも同感だが、こう言われるのも、興味の中心が謎解きにあるからではないだろうか。
「どれから読めばいい?」という質問が多いのも、それゆえに、なのかもしれない。「コナリーのミステリは、それぞれがはっきりつながって、一つの世界を創っている」と聞いて、うっかり新しい本から読むと、古いもののネタを割っていたり、謎解きがわかり辛かったりするんじゃないか、などという不安を抱く読者もいそうだ。作品相互のつながりがプロットや謎解きに深く関わっているのは、既訳の中では『天使と罪の街』しかないから、そんな心配性な人も、安心して楽しんでいただきたい。他の作品では、細部のつながりはファンサービスだと思って、何作か読んで細かいところが気になりだしたら読み返してみる、というくらいの付き合いでよさそうだ。たとえば、『暗く聖なる夜』をまず読んで、あの結末の彼女はどんな人なの、と思ったら、『ナイトホークス』に遡ってみてもいい。「あれを読むならそのまえにこれを読まないと」なんて、勉強みたいに思ったら、ミステリを読むのも気が重くなってしまうだろう。
 楽しまないともったいない。こんなに外れのないものを書くミステリ作家なんて、なかなかいないんだから。
《翻訳ミステリ大賞シンジケート》で、翻訳者の古沢嘉通さんが、初心者に薦めるコナリーの三作として、『リンカーン弁護士』『わが心臓の痛み』『暗く聖なる夜』を挙げている。さすが、と言うほかない選書だ。ぼくには、この三作にそっと加えたい、もう一作がある。『シティ・オブ・ボーンズ』。古い白骨の謎を、地道にこつこつ追っていくボッシュヒラリー・ウォーの『愚か者の祈り』や『ながい眠り』を二十一世紀に書いたらこうなるのか、と思わせる、警察捜査小説の傑作だ。
 マイクル・コナリーの邦訳は、嬉しいことにこれからも続くということだ。次の邦訳を、読み逃した短篇を探しながら待つことにしよう。

たびたびで恐縮ですが、これからコナリーを読もう、とお思いの方は、「初心者のためのマイクル・コナリー入門」(翻訳ミステリー大賞シンジケート。下記リンク先)を、ぜひ御一読ください。作品リストもそちらで御参照いただけます。
http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20100413/1271091054