『白鯨』航海日誌(2)

『白鯨』に難解なイメージがあるのは、おそらくは巻頭の「語源」と「文献抄」の印象が強いからに違いない。だが、これらが鯨の「世界」や「歴史」を示すもの、と気づくと、この航海、さほど厳しいものではない、という気がしてきた。
 そして本編、第一章に入るや、語り手がこのように名乗りを挙げる。
「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ」
 難解という言葉とは縁遠い口調だ。原文は「Call me Ishmael」で、阿部知二訳だと「私の名はイシュメイルとしておこう」となり、比べると田中訳は演出が強いような気がしないでもない。が、読み進めるとすぐに、この歯切れのよさや勢いが、なんともしっくりしてくる。
 この自分のことは語らない、何者ともつかぬ、まさに「風来坊」の語りは、威勢も歯切れもよいうえに、やけに饒舌で、おまけに博識でもある。そこから、なんともいえない可笑しみが湧いてくる。そう、この語りは諧謔的なのだ。さらに、笑いを誘う彼の言葉には、妙に冷静な裏打ちがあって、「拳骨は世の中をごつんごつんと回りあるく」なんていう軽口さえ、箴言のように思えてくる。イシュメールというやつ、ちょっとした哲学者なのかもしれない。
 だが、だからといって、彼は洒落た言葉をひけらかすばかりの、生意気な若僧ではない。海に憧れるだけでなく、海への畏れも知っている。この章の章題「海妖(あやかし)」、阿部訳では「影見ゆ」だが、どちらも彼のその畏れを映しているようだ。ちなみに原文は「Looming」、直訳すれば蜃気楼となるところ。

 軽い荷物で旅に出たイシュメールだが、ニューイングランド捕鯨の町、ニュー・ベドフォードの旅宿「汐吹亭」に宿を取るや、一人旅は珍道中となる。旅の友は、片時も銛を手から離さぬ異形の威丈夫、南太平洋のある島から来たクィークェグ。この二人の出会いの場面が実に可笑しいのだが、キリスト教徒にはない視線でものを見、考える彼もまた、海の哲学者の一人である。
 このクィークェグをはじめ、第三章から、面白い登場人物が次々に現れる。「汐吹亭」の主人コフィン。元船乗りで、礼拝堂を船に見立ててヨナの物語を説教するマップル牧師。イシュメールとクィークェグがナンタケットで泊まる「鍋屋」の豪快なお上さん(第十五章で語られる、彼女のチャウダーがやたらに旨そうだ)。第十六章で、イシュメールが捕鯨船ピークォド号に乗船を決める段では、船の事務方であるピーレグとビルダド、二人の老船長のやりとりが楽しく、ビルダド船長の妹で備品調達係、「慈愛小母さん」の甲斐甲斐しさも微笑ましい。かれら登場人物の一人ひとりのキャラクターにふれるたび、なんだかコミックを読んでいるような気さえしてくる。それほどにわかりやすく、楽しげに描かれているのだ……まだ現れないエイハブ船長を別にすると。彼については、謎めいた老水夫イライジャの、不安を誘う告げ口があるばかりだ。
 だが、船長が姿を現さないまま、船は出る。第二十二章「メリィ・クリスマス」で、水先案内の夜直ビルダド船長の、希望にあふれた乱れぬ唄声とともに。

 もはや、当初に抱いていた難解さの先入観は消えた。ここまでの『白鯨』は、実に面白い海洋冒険小説だ。笑いあり、謎あり、大冒険への予感あり。だが、船出のあとから物語は奇妙になり、そして、さらに面白くなっていく。
 なお、古書店岩波文庫の旧版、阿部知二訳を入手したので、今回から田中訳を読みながら、ペンギン・ブックスの原書とともに、ときどき参照している。同時期の翻訳ながら、対照的なのが実に面白い。阿部訳は翻訳のお手本のような、きっちりした文章。田中訳は端整な言葉遣いのなかに、ときどき講談を思わせるくだけた語調がある。阿部訳はオーケストラ、田中訳はビッグバンド、といえば、わかりやすいかもしれない。

『白鯨』上 ハーマン・メルヴィル 田中西二郎訳 新潮文庫2006改版(1952初版)
MOBY-DICK by Herman Melville, 1851
http://www.shinchosha.co.jp/book/203201/