夜明けの睡魔


 1980年代の《ミステリマガジン》に絡んだことを、トルーマン・カポーティとフィリップ・マクドナルドについて書いたとき、それぞれ触れてみたら、瀬戸川猛資さんの『夜明けの睡魔』を読み返したくなった。

 この類稀な海外ミステリのガイドブック、もしくはミステリ評論は、のちに創元ライブラリから文庫が出ているが、《ミステリマガジン》の連載だったものだから、文庫版があっても、ぼくには早川書房の単行本のイメージが強い。

 いったい何度読み返したことだろう。なのに、今気づいて驚くことがあった。
 まずは、よりにもよって、「まえがき」に。

 この「まえがき」で、瀬戸川さんはまず、1962年と1985年の翻訳ミステリ出版状況を比較する。
 二十余年のあいだに、刊行点数は倍増。ほぼポケミス(ハヤカワ・ミステリ)と創元推理文庫だけだった時代から、大手を含む多くの出版社が翻訳ミステリを出す時代に変わった。
 そこから、読者も変わり、翻訳ミステリも転換期に来ている、と考える。
「こういう混沌とした状況のなかで、本当におもしろい作品はどこに隠れているか」
 瀬戸川さんはこう語る。そして、その試みが『夜明けの睡魔』だ、と。

 これは、今こそ必要なことじゃないか!

「翻訳小説は売れない」と言われる今、翻訳ミステリはいったい、一年のうちにどれだけ刊行されているのか。
 1962年で100点強、1985年は200点弱。2007年は……さらに多いことだろう。
「売れない」とぼやくより、読者が追いつけないほど本が次々出る現状を、正常なほうへ戻すのが、急務ではないのかな。

 おっと、脱線。

〈夜明けの睡魔〉の連載は、1980年7月号から二年半だったそうだが、その第一回「女王位継承争い」を読んだら、また発見が。
 それも、最初の最初に。
 かくも数多く刊行される翻訳ミステリを見て「本格ものの旗色が悪い」と感じ、「ここ数年間に訳出された本格ミステリを片っぱしから読んで、あれやこれや書いてみることにした」と思い立つ瀬戸川さん。
 もっとも、「最近の本格ミステリをほとんど読んでいない」「どれくらいおもしろいのか、よくわからない」などというのだから、たよりないというか、謙遜のしすぎというか。
 でも、その言葉が事実であろうとなかろうと、そこに瀬戸川さんの芸がある、というべきだろう。「よく知らない」者が「片っぱしから読んで」みて「あれやこれや書く」からこそ、自由な視点と新しい発想で語ることができるのだから。
 で、そのあれこれ読んだ作家たちが、すごいメンバー。
 前半だけでも、P・D・ジェイムズにはじまり、コリン・デクスター、ピーター・ラヴゼイアイザック・アシモフロス・マクドナルドと続くのだから。
 後半、本格ものだけでなく幅広くミステリを捉えるほうに路線変更し、あえて珍しい作品を取り上げた章もあるけれど、それでもギャヴィン・ライアル、ブライアン・フリーマントル、マイクル・Z・リューイン、スティーヴン・キングと来て、ルース・レンデルで終わる。
 当時としては、新人から中堅どころなのだが、今の眼で見れば、ロングセラー作家総まくりだ。
 それらの作家のあいだに、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』やウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人』のような「新たな古典」というべき名作や、ジョン・ディクスン・カーの遺作、ヒラリー・ウォーやリチャード・ニーリイ、ハーバート・リーバーマンのような通好みの作家まで入れてバラエティを持たせ、「本当におもしろい作品はどこに隠れているか」、探し出し紹介している。

 雑誌では〈新・夜明けの睡魔/名作巡礼〉として、1985年1月号からはじめた連載が、本書後半の〈昨日の睡魔〉。こちらは〈夜明けの睡魔〉の現役作家の作品を、古典的名作に置き換えたような印象。
『Yの悲劇』に始まり、『赤い館の秘密』『僧正殺人事件』『アクロイド殺し』と続いて、〈夜明けの睡魔〉よろしく、珍しい作品も入ってくるけれど、こちらもまさにロングセラーづくし。それらを先入観にとらわれない眼で再読するさまは、今読むと、なんだか石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア』を思い出させる(そういえば、瀬戸川さんと石上さんは親友だった)。
 そんな風に古典的名作を語る中に「これは極意だ!」と思った言葉を見つけた。

「ミステリは、もっと愉快に、ふまじめに」

 瀬戸川さんには、このスタイルで、もっと多くの、もっとさまざまなミステリを語ってほしかった。
『夜明けの睡魔』を読み返すたび、そんな思いがいつも胸に浮かぶ。

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『夜明けの睡魔』
瀬戸川猛資

早川書房 1987(単行本)
装丁:菊地信義

創元ライブラリ 1999(文庫)
装画:ひらいたかこ 装丁:磯田和一