フィリップ・マクドナルド『Xに対する逮捕状』

 フィリップ・マクドナルドというミステリ作家は、ぼくより少し上の年代の読者には、伝説の存在だったらしい。ぼくには、その実感がない。十代の頃《ミステリマガジン》の犯人当て懸賞として分載された『迷路』で出会い、前後して創元推理文庫から『ゲスリン最後の事件』(のちに『エイドリアン・メッセンジャーのリスト』と改題)や『鑢』が刊行されたからだろう。
 だが、この『Xに対する逮捕状』が、『ライノクス殺人事件』と並んで「黄金期英国本格ミステリの幻の傑作」と言われていたことは覚えている。ミステリ・マニアの年長の友人が、どちらも持っている、と自慢げに見せてくれたものだし、神保町の古書店で、高値がつきガラスケースに納まっているのも見た。
 でも、一昨年(2008年)に刊行された『ライノクス殺人事件』の新訳版を読んだときは、あれれ、と思った。本格ミステリの要素は持っているし、作者もそれを活用しているのだけれど、狙いも落しどころも違う。本格ミステリをなぞるふりをして実は外していて、その特有の要素で遊んでいる。ページの向こうで、作者が悪戯小僧のような笑みを浮かべているようだ。だから、読み終えたときには、本格ものではなくても「ああ、面白いミステリを読んだな」という気持ちが、はっきりと残った。
 そういえば、『ゲスリン最後の事件』だって、読みどころは謎解きよりも、怪犯罪者が繰り出す奇策と、それに振り回されながらも追いすがる名探偵の対決で、なんだか江戸川乱歩の探偵活劇長篇みたいな楽しさがあったものだ。解説の瀬戸川猛資さんが、別のところで「ミステリは もっと愉快に 不まじめに」と書いていたのを思い出した。
 この『Xに対する逮捕状』もまた「怪人対名探偵」風のお話。ロンドンを訪れたアメリカの劇作家が偶然耳にしてしまった密談から、名探偵ゲスリンと仲間たちはまだ起きていない大事件を未然に防ごうと奔走する。相手にするのが「まだ起きていない事件」なので、ひとつ手を打ち誤れば状況は一気に悪くなってしまう。それだけにサスペンスは強烈だ。そのうえ、犯人像がかなり無気味で、発表当時の読者には相当に怖ろしかったのではないだろうか。だが、暗号めいたメモをはじめ、乏しい手掛かりから犯人の動きを読み解いていくあたりは本格ミステリの味わい。謎解き、追跡、また謎解き、さらに追跡という「たたみかけ」が巧みで、読みだしたら止まらない。
 書き方に映画みたいな演出があって、いまどきのミステリみたいだな、と思ったら、戸川安宣さんの解説(いつもながら見事なお仕事です!)を読んで納得。フィリップ・マクドナルドは、生まれたのも作家デビューしたのもイギリスだけれど、すぐに活動の場をアメリカに移し、ハリウッドで脚本家をしていた、という。また、この『Xに対する逮捕状』も映画化されているというから、見てみたくなった。そういえば『ゲスリン最後の事件』を映画化した『秘密殺人計画書』、こちらも瀬戸川さんがいかにも楽しそうに紹介していた記憶があるのだけれど、原作とはまた違った茶目っ気があって、実に面白かった。

フィリップ・マクドナルド『Xに対する逮捕状』真野明裕訳 創元推理文庫 2009
WARRANT FOR X (THE NURSEMAID WHO DISAPPEARED) Philip MacDonald 1938

http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488171056

『ライノクス殺人事件』(暢気倉庫通信)http://d.hatena.ne.jp/uncle_mojo/20080405/p1